キラー・インサイド・ミー

The Killer Inside Me
50年代の西テキサス。まじめで皆に好かれる保安官助手ルー(ケイシー・アフレック)が、苦情を受けて町外れの売春婦ジョイス(ジェシカ・アルバ)に警告を告げに出向く。
キラー・インサイド・ミー

Little Willie Johnの「Fever」に乗ってレトロなデザインのタイトルバックが流れます。油田開発で発展した1950年代のセントラルシティが舞台。車やBGMや節々に50年代風味が加味されます。50年代をことさら強調するようなノスタルジックムービーというわけでもありませんが、自然とこの時代を感じさせてくれます。
「キラー・インサイド・ミー」はジム・トンプソンの代表作「内なる殺人者」(1952)の映画化で、元々のお話がリアル50年代であるからして50年代の物語というのは当たり前なのですが、現代においてそのシチュエーションが醸し出す雰囲気が効果を上げています。つまりどういうことかというと、ちょっと暢気に思える警察の捜査や稚拙な犯罪計画にボロがなかなか出ない点を「この時代だからこんなものだろう」と勝手に思い込んだりして、犯罪心理に同調してしまうんですよね。

犯罪者の想像力ということについて考えてみましょう。
MovieBooではたびたび「芸術家と犯罪者は同一である」と指摘していますが、では異なる点はどこでしょう、というと、それは想像力です。犯罪者と芸術家の差異は想像力の有無、あるいは想像力の種類の違いである、と、こう結論づけられます。
最貧国の犯罪をテーマにした映画などでも度々教育の重要性が語られますがそれは教育によって想像力を養うこと、即ち想像力の向上が犯罪を防ぐという考えにも基づいています。想像力のなさ、あるいは貧弱さが犯罪を生む心理の根底にあることは知られており、皆様体験中の人類史上最悪の事故を引き起こした核施設を推進・容認している連中も残らず想像力というものが欠落している愚鈍な犯罪者たちであるいうことがおわかりと思います。
おっとそういう話はよそでするとして、犯罪者の貧弱な想像力にはいくつか特徴がありますが、その中のひとつに「都合のよい想像」というのがあります。いろいろな状況を想像してそれに対処する必要があるときに、緻密なようでついうっかり自分に都合のよい展開だけを想像したりするわけです。
たとえば犯罪を犯したときに何か証拠が残るようなミスをしてしまったとします。「しまった、あんな痕跡を残してしまった」と思った直後に「しかし些細な点だから誰も気づかないだろう」あるいは「あの痕跡については、これこれあれあれということにすれば皆信じるだろう」「またはあれあれこれこれという状況であるとすれば問題ないだろう」そして「いずれにしても些細な問題だ。むしろ今後気をつけようと気づかせてくれてラッキーだ」ぐらいに都合よく想像します。

「キラー・インサイド・ミー」ではこの犯罪心理に観客が無自覚なままどっぷり浸かります。これが大変おもしろい効果を生んでいます。
犯罪心理にどっぷり浸かってしまうのは「50年代だからこんなものだろう」という浅はかな想像と同一であり、時代設定が効果を上げているというのはそういうことです。
これは原作小説外の、今時の映画ならではの効果であると思います。
そしてもちろんもうひとつあります。
この作品、主人公の保安官助手ルー(ケイシー・アフレック)が語り手であるという点です。
この語り手は甚だ信頼の置けない語り手です。原作がどのような形式の小説か知りませんのであくまで映画を見ての感想ですが、これは所謂「叙述トリック」の形相を帯びています。
「叙述トリック」というのは推理小説において形式自体が持つ暗黙の前提を利用したトリックで、「信頼の置けない語り手」による進行というのもその特徴のひとつです。
前述の「50年代の捜査だからこんなものだろう」と観客に思わせるのも叙述トリックの技術のひとつであり「キラー・インサイド・ミー」の基本を貫く姿勢であるとわかります。
この「信頼の置けない語り手」であるルーの独白と行動を我々観客は追うわけですが、独白付きの行動という親切極まりないと思える状況下で時にルーがしでかす突飛な行動を目の当たりにして理解不能状態に陥り、観客である我々のゲシュタルトは崩壊します。

「キラー・インサイド・ミー」の魅力の一つがこの映画的叙述トリックにある点は見逃せません。エンディングまで観た直後、今すぐ最初からもう一度観たくなります。
主人公の行動だけに注目しすぎて見逃していた周囲の反応やあるいは主人公が語らなかった心理や状況が気になってくるんですね。この作品は決して推理小説的なミステリーというわけでも、落ちにどんでん返しがあるわけでもないのですが、にもかかわらずいろいろな部分を再確認したい衝動に駆られます。
つまり、とても良くできた作品です。
というか、見事です。

人物描写、暴力描写、50年代風佇まい、家に道路に町に風景、説得力ある映像表現に丁寧なドラマ、観客は持って行かれっぱなしです。

小憎たらしいくらいの素晴らしい演出を決めたマイケル・ウィンターボトムはイギリス出身の監督・脚本家で、難民問題の「イン・ディス・ワールド」でベルリン映画祭金熊賞のほか、カンヌでのパルムドールノミネート作品が3本ある実力派。ミステリー、ドキュメンタリーをはじめ社会派からSFからセックスだらけの愛の映画と多岐に渡るジャンルの映画を制作しています。「キラー・インサイド・ミー」から漂うタダモノじゃない感は伊達じゃなかった。

主演のケイシー・アフレックの無表情とかすれ声がこれまた効果的。謎性を感じさせる声ですね。「ストーン」のエドワード・ノートンがちょっと似た声の感じでした。
ジェシカ・アルバもいい味です。かわいいですねジェシカ・アルバ。「マチェーテ」とか最高でしたね。

ただただ惜しい一点があるとすれば、やはりエンディング近くの展開かも。ちょっとさすがに「臭いで気づけよ」とか「そこでその台詞はクサいだけで意味ないだろ」と、ちょっとだけツッコミ気分になってしまいました。理屈優先の「『ツッコミどころ満載』野郎」に成り下がりたくはありませんが、でもちょっとなあ、惜しかったなあ、まあ映画全体からしたら些細なことですのでよしとします。

酷い暴力シーン、信頼できない語り手による油断ならない物語、周辺人物の細やかな演出と、見応えある逸品にて大満足の「キラー・インサイド・ミー」でした。

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