暗殺の森

Il conformista
ベルナルド・ベルトルッチ1970年の「暗殺の森」は、ファシズムへ傾倒する精神的軟弱男の物語で精神分析的ファシスト研究であり、30年代イタリアとフランスの世相と風俗の映画であり、伝統様式から現代的な様々な技法を堪能できる芸術技法のカタログであり、超カッコ良くて痺れる映像満載の究極映画でありまして、この度これ初めて観ました。
暗殺の森

ベルナルド・ベルトルッチの名が一般に大ブレイクしたのは「ラスト・エンペラー」が大ヒットしていた頃で、今から思えば何故あれほど「ラスト・エンペラー」がヒットしたのか意味がわかりません。すんごい宣伝大作戦を繰り広げたんですよね。思い返しても不思議なブームでした。もちろんそれに乗せられて私も観に行きましたが、その時はまあそれほどすんごいものを観たって感想は持ちませんでした。
その後もご縁がなく、高名なのにぜんぜん観てない監督のひとりとなりまして、私にとっては知らない巨匠でした。まじで他は「10ミニッツ・オールダー」の「水の寓話」しか観てません。

で「暗殺の森」を観てみたんですが、これがまあ奥さん、大変なものでして、そりゃベルトルッチ巨匠と言われて当然ですがな何このものすごい映画は。いきなり序盤から最後まで、目を見開きお口あんぐり心の臓は高まり手足は痺れ大興奮でのたうち回る始末でした。いやはやこれは凄いこれはメタクソ面白い超絶カッコ良い。

こんな表現では何のことやらわからないのでもうちょっと説明的に書くと、この映画は物語がよくてそれから映像もすごいよいのです。・・・あ、あかん語彙が死んでる。

ファシスト

一般名詞と化したファシスト、ファシズムですがイタリア映画にとって避けて通れない言葉でもあります。
「暗殺の森」の主人公マルチェロ・クリンチ(ジャン=ルイ・トランティニャン)はキリっとした顔してファシストとなります。
金目当てでもないし権力志向があるわけでもない。純粋ピュアに愛国でファシストです。面接でそう言い切って見事党員となりますが、特に政治的な男でもないというのがファシストというものを端的に表していて実に面白いです。

「暗殺の森」の原題は「Il conformista」で、従う人、同調者、体制順応主義者、そういった意味のようです。
ファシストと言うと国粋主義者、ナショナリスト、権威主義、全体主義、アンチ個人主義なんて言葉が浮かびますが、ファシストを精神分析的に個人として診断すると結局のところ「Il conformista」ということになります。政治信条など孤独と症状を隠すための蓑です。

エディプス

ほら来た。政治思想信条の表層的な衣を取っ払った時、ファシストや極右や全体主義者の連中ってのは、育ちにコンプレックスがあり、幼少期に性的な問題を抱え、大人になりきれず、孤独で疎外感を持ち、他者依存で、実のところフロイト教科書的なただのか弱い人でただの「従う人」に過ぎないということです。
まさにマルチェロ・クリンチが体現しているような人間です。

と、「暗殺の森」はそういう男の物語でありまして、絡んでくるのはリビドーとエスを体現するふたりの女性、そして「父殺し」の象徴たる父親的教授、見張り役、盲目の思想家、その他です。ファシストになっていく主人公、懺悔により明らかになる少年期のトラウマ、同調と社会、そして崩壊、何とまあ、まったくもって精神分析そのままの物語です。原作はアルベルト・モラヴィアの「孤独な青年」という小説ですって。これ読んでみたいです。

従う人

ちょっと話はずれますが近頃そこいらのネットに沸いて出ている「従う人」たちの精神構造も容易に想像がつきます。30年代を撮った70年の映画ですが13年でも何一つ変わるところなく分析可能です。
私個人的に「右翼」という言葉の定義がよくわからないので使いません。国内に限っては天皇崇拝者のことをそう呼んでいましたが今ではちょっとそれも違うような気もしますし。代わりに全体主義者あるいは権威主義者あるいは差別主義者と言う時があります。体制順応主義者という言い方は思いつきませんでした。これからは体制順応主義者、あるいは従う人という言い方でキマリです。これが一番ぴったりフィットするような気がします。
同様に「左翼」もよくわからない言葉なので冗談以外では使いません。代わりの言葉は「リベラル」かと思っていましたがそれも微妙に違うんで、例えば米民主党などはリベラルですが相容れないところが多すぎますし、平和主義者とか反差別主義者でもいいんですが、いい言葉がなかなかありません。「知性派」でもいいんですけどちょっと嫌味です。上記定義を参考にすると「従わない人」になります。あぁ。これが近いかな。ただ「非順応主義者」というと「いえ、そこまでは・・」と思ってしまうんでピッタリとは言いがたいのですが。何の話してるんでしょ。

退廃

というわけで物語の二軸は、精神的軟弱男のファシスト傾倒ってのと、父権との葛藤と父殺しまでのエディプス・コンプレックス物語ですが、ただのそれじゃありません。社会的には背景にあるイタリア近代史も横たわっています。特に描きませんがファシスト党の隆盛と崩壊の境目の飛ばしっぷりなんか見事です。とてつもなく退廃的で、第二次大戦と19世紀の区別がもはやつきません。

退廃と言えば主人公マルチェロ自身の退廃もずーっと横たわっているし、母親の件や少年期のアレも、何だかとても退廃的なものが付きまとっています。この付きまといに負けて「従う人」になるわけですが、最後の最後もまたとてつもなく退廃的なシーンにて収束します。
このけだるさややるせなさや絶望感はもうとてもカッコいいくらいですよ。退廃大好き。

映像表現

冒頭から最後の最後まで、何がすごいって、映像です。序盤しばらくは何の話をやっているのかよくわからないシーンが続きますが、例え何をやっているのかよくわからなくても、見事な映像を見ているだけでお腹も頭もいっぱいなので何も気になりません。

映像表現というときには、絵画的な構成や絵面を指す部分と映画的な動きも含めた表現を指す部分があります。その両方が合わさったものも指します。
で、そのどちらもが凄いです。綺麗でカッコ良くて渋くてクール。映像派でなくてもその映像の美しさに息を呑むでしょう。いいですか、この映画、全てのシーンがカッコいいんです。全てのシーンをポストカードにしてお部屋に飾りたくなります。全てのシークエンスがお洒落なミュージックビデオになります。

暗殺の森 ロビー

暗殺の森 病院

かっこ良さにも満腹要素が天こ盛りです。まず何がって、その表現形式が多岐にわたっています。
美術用語を繰り出しまくってもいいでしょう。アールデコとか何とか表現主義とかダダとかシュルレアリスムとか、そしてまたあるいはフィルムノワールだとかゴダールだとか、映画的表現技法なんかの単語を繰り出してもいいでしょう。

「暗殺の森」は表現技法の百貨店やぁ

いやまったく。しかもベースが30年代イタリア、フランスですからね。かっこ良さは並みじゃありません。拝借したような美しさの羅列と酷い言い方もできますがそんなことはかっこ良さの前では気になりません。
映像に凝った映画はたくさんありますがこの映画ははっきりと過剰です。でもやるからにはとことんまで。やり過ぎぐらいやり遂げたこの凄さが潔いのです。

役者

主人公マルチェロ・クリンチを演じきった背筋の伸びたこの男前ジャン=ルイ・トランティニャンです。つい最近は「愛、アムール」でも複雑な役を演じきっていました。

暗殺の森 ジャン=ルイ

教授の妻アンナを演じたドミニク・サンダはこのときまだ二十歳になってるかなってないかという年齢。いやはや。いやはや。

ドミニク・サンダ(暗殺の森 -1970)

妻ジュリアの役はステファニア・サンドレッリです。ドミニク・サンダばかり脚光を浴びますがこの妻役も大したものです。とてもいいです。
とてもいいです。

ステファニア・サンドレッリ(暗殺の森−1970)

クアドリ教授役のエンツォ・タラシオとか、マルチェロの護衛と監視をするマンガニエーロを演じたガストーネ・モスキンとか、皆が皆、棄てがたい魅力です。

というわけでわーわー言うとりますが「暗殺の森」、覚悟していないのに面白すぎて大変でした。

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