隣人 ネクストドア

Naboer
隣人 ネクストドア

つづきです。

いきなりネタバレであれですが結局は男の幻想あるいは夢あるいは白日夢というオチになっていますが、そうであろうことはうすうす感じながら観ることになりますから、今更オチで驚かせてやろうって映画ではないのは明白です。むしろ本編中にそれを気づかせてあげようというシーンも用意されています。

この技法に何の意味があるのかというと、もちろん男の精神構造をダイレクトに感じさせる効果です。

例えばCDのシーンがあります。出て行く彼女の荷物整理をしている序盤、綺麗に整頓されたCD棚が必要以上に目に焼き付くように映されます。
後ほど、姉妹の家での散乱したCDが出てきますね。姉妹の家は男の家でもあります。男の目に、整頓されたCD棚という日常の光景の記憶がどれほど痛いものであったかが示されます。

例えば食事のシーンがあります。男が自分の部屋で食べていたものと同じ料理が姉妹の部屋にあります。このシーンの頃には観客のほとんどが男の白日夢に感づいていますから駄目押しのシーンですね。壊れかけている男の姿を、哀れを持って観ることとなります。

「隣人」は、多くオチに気づかせるシーンを紛れ込ませることで、男の精神が壊れていることを示します。どのように壊れているのかを姉妹の言葉の節々で投げかけ、これが観ていて非常に辛いのです。観客の興味は「じゃあ、いったい、いつから精神が壊れているのか」の一点に集約されます。オチがあるとすればこの点ですね。
「全部だ」
ときっぱり言われてしまいます。それで一気に、映画の最初からの出来事を反芻して気が遠くなります。
同時に、やはりそこに哀れさを強く感じることになるのですね。

明確に夢の映画です。

夢の文芸化に対する疑問の投げかけは昔からありました。今ではそんな疑問はありません。それは成り立つものであるという結論が出ています。
ただし、単に荒唐無稽な夢世界を荒唐無稽に描いても面白くも何ともありません。その見せ方にはいろんなやり口があろうと思います。

「隣人」では荒唐無稽さを押さえ、精神内部で起きている事柄と実際の事柄を混在させました。
この混在具合こそが「隣人」の優れた部分です。単に現実世界を模したわけでもなく、暗喩に徹したわけでもなく、混在させています。混在させているからこその悲哀を強調します。

推理ごっこで遊ぶとすれば、ほぼ明確に現実世界であるというようなシーン、例えば出社のシーンやバスのシーンですね、ああいうシーンの謎性も深まります。それから、現実でどれほどの時間が経っているのかという点も興味深いところです。
意外と経っていないのです。家具を動かしたのはいつか、彼女の新しい恋人が現れたのはいつか、同僚と喋ったのはいつなのか。いわば、わりとすぐなんです。これが映画的にわりと罠で、ますます哀れさを強調します。哀れどころが、心が痛みます。

つまりこの映画、オチで驚く映画でなく、オチを知ることで主人公の哀れさを痛感するとても哀しい話なわけですよ。そこが驚くほどよく作られています。

起きながらに見る夢は現実逃避と狂気の合わせ技。狂気に感情移入できる人であれば胸が苦しくなるほどの痛みを主人公と共有できます。

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