危険なプロット

Dans la maison
高校国語教師と生徒のお話です。「まったく近頃の餓鬼は馬鹿ばかりで作文の一つも書けやしない」と嘆いている文学者崩れの教師を呻らせる作文を提出するひとりの生徒。教師は作文に夢中になりのめり込みます。
危険なプロット

やってくれたぜぼくらのフランソワ・オゾン。
この監督は作る映画ごとにテイストを変え技法を変える魔術師のような天才的技術を持つ監督でして、作品を観るたびにほんと驚かされます。物語とテーマと表現技法が常に三位一体、映画にふさわしい技法を毎回上質に繰り出すフランソワ・オゾンは最早表現技法の百貨店やー。新作が登場する度に「今度はどんなだろう」と心底わくわくさせてくれます。

「危険なプロット」は一言で言い切ってしまうと文学映画です。これはありそうでなかなかありません。何、文芸映画など腐るほどあると。そうなんですけどそうじゃなくて、この映画は文学そのものを映画で体験できる文学映画って意味です。文学と言いますがただの文学ではなくて超虚構文学の映像化と言っていいのではないかというそういう文学映画です。
超虚構というのは筒井康隆先生の造語で虚構を強く意識した虚構です。虚構をことさら強調するために、虚構を構築するための技法そのものに踏み込むという特徴を持ちます。過剰なメタテイストを含んだり、登場人物が虚構内存在だと自覚していたりします。とにかく、それは文芸上の定義です。
もともと超虚構文学の方法論は映画表現と相性が良く、というかむしろ映画表現からヒントを得たのではないかと思える節さえありまして、つまり文芸上実験的な技法であっても、映画でそれをやることは別段目新しいわけでもないということが言えたりします。
では映画で超虚構文学の技法を繰り出して驚かせた「危険なプロット」は何をどうしたのかというと、映画ならではの自由な技法ではなく、あえて文芸上の方法論をそのまま持ってくるという、つまり簡単に言うと映画でメタ小説そのものをやってしまったということです。この映画は映画であると同時に超虚構文学そのものでもあるわけです。
映画で文学をやるというのは是即ち朗読を含む映画内小説がきっちり存在しているということももちろん含みます。小説というのはシナリオで言うとト書きだけで成り立っているようなもので、普通の映画ではト書き部分はあまり多くのウェイトを占めません。言葉で説明せず映像で見せるからです。昨今はめっきり見かけなくなった過剰なナレーションというものが昔の映画にはよくありました。「危険なプロット」では言うなれば昔の映画のナレーション部分が過剰に溢れていて映画内小説として独立してしまえるほどの力を持たせているという、そういう表現を行っています。言葉をメインに据えているということで、これが文学映画であるという大きな理由です。

というわけでこの技法について考えているだけで頭がぐるぐるしてきますが、映画内小説が独立していて、それは主に言葉によって表現されていて、その小説がしかもメタテイストを含んでいて、映画のストーリーそのものと密接であるという、さらに付け加えるとナレーションが過剰に含まれた古い映画表現を思い起こさせるし、言葉が重要ですからフランス語の文法的なやりとりも重要になってきたりして、そういう全部が「危険なプロット」のテーマでありストーリーそのものであり描いている事柄そのものであるという、そういうことですね。フランス語がさっぱりわからず字幕に頼り切っているという残念感はありますけれども、それでもこの映画の物語と表現技法の合致は斬新且つ個性的であると強く思いますし、力として迫ってきます。

相当くどくどしてきましたのでお話を紹介します。

教師と生徒がいて、生徒が作文という名の小説を書きます。どんな話かというと、友人の家に入り込み家族を探るという内容です。作文は常に「つづく」で終わり、なかなか先を読み進めることが出来ません。
その物語に没頭する文学崩れの教師です。もちろん映画を見ている観客も没頭します。文学崩れの教師は高校生の書いた作文ということも忘れ、評論家か師匠のように作文に関して指導するんですね。作文というか、文学作品としてですね。もう本気です。文学崩れだけあって、うざいけど時に的確だったりします。教師の話は物語を構築するヒントに満ちています。

作文の内容パートがあり、教師による「小説講座」パートがあります。まるで「文学部唯野教授」のような構成ですね。観客は作文の中の物語にも、教師の講義にも、そして教師と生徒のパートにも引き込まれます。教師の講義パートが次の作文を書くための生徒の行動に影響を与えたりします。もちろん作文内容が教師にも影響を与えます。それら一連の出来事が教師と生徒のレイヤーに影響を与えます。教師は妻にも作文を読ませていますから妻にも影響を与えます。
さまざまなパートと折り重なったレイヤーで作られた多重構造が、映画の進行に沿ってスパイラル的に混ざり合ってきます。混ざり合った物語の集合はすでに事実とか虚構とかそういうのを超越します。教師と生徒の愛の話なのかという点もそうです。それが愛なのかどうなのかという話は最終的には複雑な形相を帯びます。「クロード、愛なのか?」と問うても無駄です。虚構と創作に対する愛に包まれるラストシーンに身を沈めるしかありません。

お話も感想文も多重レイヤーでややこしくなってきたので役者さん行きます。
教師を演じたファブリス・ルキーニの完璧感は異常事態です。素晴らしい役者さんですねえ。この教師役、文学者崩れで劣等感も持ち、進歩的な部分も教師ならではの性根の腐った部分もあって、とにかく人間的な深みまで踏み込んだ見事な演技でした。
少年役のエルンスト・ウンハウアーもすごいもんです。ただの怪しい美少年ではなく、ちゃんと少年っぽさと魔性の両立を表現できてます。聞くところによりますと童顔で背も低い彼は本当は24歳くらいだそうですね。演技力が求められるため、本当のティーン俳優では上手くないと監督が考えたらしいのです。
それから、少年の友人の彼、あの彼が誰なのか知らないのですが、あの少年のキャラもよかったですね。よくあんなピッタリの変な少年を見つけ出したものです。

いろいろとややこしそうなことを書いたように見えたかもしれませんが、この映画のすごいところはややこしさなど実際は微塵もなく、普通にのめり込んで楽しめるストーリーの妙技に満ちている点を忘れずに強調しておきたいと思います。極上の作品です。誰もがのめり込むこと間違いなし。フランソワ・オゾンすごい。

ヨーロッパ映画賞脚本賞、サン・セバスティアン国際映画祭ゴールデン・シェル、審査員賞(脚本賞)、第37回トロント国際映画祭国際映画批評家連盟賞スペシャル・プレゼンテーション受賞

 ということで「危険なプロット」に関しては非常に個人的な事情が絡んでいますので冷静ではないのですが、公開時、多忙で観に行けなかった私は「俺の前でわずかでもネタをバラすの禁止な」と、激しく何か言いたそうな観に行った人たちに釘を刺したりしておったわけです。その後はDVDが出るのを待ちわびていたわけですが、発売された頃には世界がすでに変化してしまっており、この映画のこともすっかり頭から抜け落ちていました。で、今時分にようやく観ることができて、ここに書いた100倍くらいのわけのわからない話を映画部内でわーわー言うて騒いでおったわけですが、その大量の言葉を投げかけたい最重要な人物がもういないという、この喪失感たるや。
作家青井橘に追悼を込めて。

[広告]

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です