昔々、アナトリアで

Bir zamanlar Anadolu'da
昔々、アナトリアで
公開年:
2011
製作国:
監督:
製作:
  • ゼイネプ・オズバトゥール・アタカン
脚本:
撮影:
主演:
  • ムハンメト・ウズネル
  • イルマズアルドアン
出演:
  • タネル・ビルセル
  • アーメット・ムンターズ・タイラン
  • フィラット・タニシュ
  • アルジャン・ケサル

刑事検事に犯人警官穴掘り人に軍警察、むさ苦しい男たちがぞろぞろと車で荒野を移動しております。いや荒野でなくて畑や湧き水もありますが、不安感掻き立てる何もない小アジアの田舎の一角です。ここで何をしているかというと死体を探しているのです。

昔々、アナトリアで

2014年のカンヌでパルムドールを受賞した「Kis Uykusu」(Winter Sleep)のヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督作品ということで、これまで日本に紹介されてこなかった過去作品のひとつ「昔々、アナトリアで」がDVDで発売されました。「昔々、アナトリアで」も2011年のカンヌでグランプリを受賞している作品です。

そういえばこないだの「クスクス粒の秘密」もそうでしたね、13年のパルムドールを機に、その監督の以前の作品がDVD化された一例です。

カンヌでの受賞作品と言えど、なかなか日本に紹介されません。日本はすでに他に類を見ないほどの後退国になって文化的にも劣化の一途を辿っておりますゆえ、今後ますますいい映画が紹介されにくい時代になります。残念なことです。海外作品の買い付け屋さんもがんばっていますが大変なのでありましょう。

さて「昔々、アナトリアで」です。アナトリアって何トリア? それは西アジアの一部で現在トルコの西部一帯ですが地理的な地名というよりも人文的な見地による地名であるということです。小アジアとも言うのですね。つまりヨーロッパ部分を含まないトルコのアジア部分で、地理的に明確な線引きがなく、なんとなく「このあたりがアナトリアね」って感じだそうです。

アナトリアと言っても広いのでよくわかりませんがこの映画はもちろん地理映画ではありませんので理解の程はそこそこでも堪能できます。しかしながら、地理はどうでもよくても土地というものが極めて重要です。また土地と風景、人間、あるいはもっと言うと歴史と立ち位置、さらには存在そのもの、そういったものがとても重要な作品です。重要というか、この映画を見終えると、そういったものにまで思いを巡らしてしまう羽目になります。羽目になるというか、そういう風に作られています。

冒頭は三人の男たちの雑談か談笑です。何を喋っているのかは聞き取れません。この短い冒頭のあと、本編に飛びます。

黄昏の時間、むさ苦しい男たちが3台の車で荒野を移動しています。いえ、荒野に見えますし感じますが畑もありますし草原だったりします。冒頭の男のひとりが犯人で、供述を元に遺棄した遺体を捜している様子です。
「供述は終わってるから確認だけね」みたいな軽い調子と裏腹に、全然死体が見つかりません。

ものすごく広いのに「アラブの映画では」などと言ってはいけませんが、いくつか観たアラブ系の面白い映画では、予想外の部分で話を引っ張ったり、想定外の部分で会話が長かったりします。変な日常会話の中に宇宙を感じさせるこの時間の引っ張り技法は何もアッバス・キアロスタミだけの特徴ではなくて、他の映画でもよく感じる特徴です。この映画もまさしくそうで、「そうか、冒頭で死体遺棄の確認をするか、あるいは探してる途中で何か起きるのかな」と思わせておいてその死体が見つからず、何も起こらず、ただ時間が過ぎて死体探しにイラつく男たちを延々と描き続けます。これこそ「昔々、アナトリアで」の本編の核を成す重要なシークエンスだとようやく気づくわけです。そしてこの異常な時間の引っ張り具合、夜になり疲れと苛立ちとあきらめが同居する男たちによる会話の空気感は格別です。

てなわけで筋の紹介は大概にして、死体を探すこの映画の見どころというか面白さは「死体はどこにあるのか」というミステリーではもちろんありませんで、次のような事柄となります。

その1、前半のほとんどを占める死体探しのシーンにおける男たちの様子と会話です。
その2、行けども行けども同じような景色が広がる丘のあるこのあたり一帯の風景描写の美しさと恐ろしさです。
その3、夜のシーンにおける情景の美しさと会話を際立たせる照明やカメラワークの凄まじさです。
その4、生と死です。光と闇です。生物と人間です。命の道筋です。
その5、それらのベースとなる宗教観というか根源的な思想です。

会話の面白さは序盤から炸裂しっぱなしです。「脱脂ヨーグルトとはけしからん。脂が旨いのに」から何から何まで、最初は仕事がすぐに終わるだろうという予想からかやや暢気な日常会話、やがて長い時間一緒にいると話の内容も少しずつ変わってきたりします。散漫とも取れる妙な会話シーンの面白さは実はある一転へと収束するテーマの片鱗を常に含ませております。会話に限らず、死体探しに頻出するキーワードもセットに考えると面白い現象に気づくでしょう。食べ物の話に始まって病気、煙草、畑、丸い木、湧き水、土地、家族、夫婦、自殺、殺人。空恐ろしい構成を感じとることができます。途中立ち寄る村ではさらに露骨になってきます。しつこい食べ物の描写にはじまり、この世のものとは思えぬ美しいものを描き、ある重要な会話部分を目立たせ、一瞬幻想的なものも忍び込ませます。この村のシーンは特別な部分ですね。ここを境に話しも展開します。

さてアラブどころかアジア全域に空想を広げますと、アジア人には何か特徴的な根源的な思想というものがありますでしょうか。難しい話しすぎておいそれとは何も言えませんが、個の存在について、もひとつ宿命というものについて考えずにおれません。
あ、広すぎて大きすぎてあたふたするのでもう少し分かり易く絞り込んで殺人や自殺について考えてしまいましょう。殺人や自殺を、死という観点から相対的に見ることができますか。

人間、最終的に誰もが例外なく死にます。750年くらい生きた人がたとえいても結局は死にます。死に方は様々です。病気や事故や老衰です。その中に殺人被害や自殺があったとしても、結局最終的な死という意味において宇宙から見ればその違いは誤差以内のものにすぎません。それが死です。木から落ちた果物は勝手に落ちたかもしれないし人間が棒でつついたかもしれませんが結局地面に落ちて、転がって小川に流されてどこかで引っかかったりするわけです。

と、言われて納得するでしょうか。
それがするのですよね。これが「個」を宇宙的観点から相対化するクセがついているアジア人的発想であるのかどうかは判りません。
犯罪や自殺が絡むと残る人の心は掻き毟られます。しかし掻き毟られたからと言って地球からすれば「それが何か」程度のことであるということです。地球からすれば、なんて言い方が変ならば「アナトリアの広大な丘からすれば」でもいいですね。

例えばよく言われていますが、自然を畏怖すべきものとして捉えるか、解明し征服できるものとして捉えるかという根本的な思想の違いというのがあります。これが人種による違いなのかどうなのかはわかりません。わかりませんが確かにその違いはあるのではないかと思えます。

と、小難しいこと書きかけてやばいですので大概にしておきますが、こういった話を描いている映画かというとそうではありません。そんな内容じゃありません。そのへん誤解なきよう。途中途中は笑えるようなシーンもあるし、自然な彼らの会話と土地の魔力を堪能するだけでも十分楽しめます。普通に映画的にほんとに面白いのです。ただ映画を見終えるとこのような考えが渦巻き、止めることが出来なくなります。

さらにもっとあります。例えば社会です。例えば女性です。法や秩序、文明と文化です。こっち方面の考えも渦巻きます。かつて知の結集、古代文明を誇った西アジアの長い歴史とそこに住む人の思想の成り立ちなんかについてもあれこれあれこれと思いを馳せる羽目になりますね。もう疲れてくるのでこれらについてもだらだら書くのはよしておきます。

それから死体探しの夜のパートの映像について褒めちぎりたいこともありましたが省略しておきます。夜のシーン、車のシーン、村のシーン、ほんとにいいです。かなり焼き付きました。省略しっぱなしやな。

凄まじい映像、たまらない会話、イラつくストーリー、面白い人たち、すべてが見どころです。世の中いったいどうなってんのかと思うばかりの良い映画がまだまだあって何だか焦りますが焦ってもどうしようもありませんしあきらめます。

2011年 カンヌ国際映画祭 審査員特別グランプリ
トルコアカデミー賞作品賞他10部門受賞

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