ベーゼ・モア

Baise Moi
パンクで過激でフェミニスト、作家ヴィルジニー・デパントが友人のポルノ女優と共に撮りあげた2000年の問題作。姦って奪って殺して旅する女二人の珍道中。
ベーゼ・モア

2015年も押し迫ってまいりました。ええ、ええ、知っています、今は2015年の年末じゃありません。でも気にせず続けます。

ヴィルジニー・デパントという作家はレイプや売春など自らの体験を元に過激な小説を書いたことで有名でフェミニストとしても知られています。います。と書きましたがほんとは全然知りません。
そういう有名作家が自らの過激な小説を過激な映画にして、過激なので問題になったり文化人が怒ったり上映禁止になったりとセンセーショナルな騒ぎになったことは・・・それも知りませんでした。
でもまあ何かそういう映画だということを聞き及んでいて、いつか観たいなと思って仕入れていたんですが2015年の大晦日の夜にこれに挑みました。年越し蕎麦を食べるまでにまだ時間があったからです。

ヴィルジニー・デパントは映画を作るに当たって友人で元ポルノ女優のコラリー・トラン・ティと共同で脚本・監督しました。そして主人公の女二人もポルノ女優の起用としたそうです。こうしたスタッフ、キャストの選択も過激と言えば過激です。でもどうかな。

過激な性描写ということについては、時々映画で話題になります。
ぱっと思いつくのは真っ先にラース・フォン・トリアーですね。自身の映画製作会社でハードコア・ポルノを製作したことでも知られており、「イディオッツ」や「ニンフォマニアック」などでもフリではないセックス描写を行いました。
マイケル・ウィンターボトム「9 Songs」なんかもそうですね。他にもいくつか、日本でもそういうのがありました。

お芝居の世界では、例えばものを食べるシーンでは本当に食べるし、キスシーンでは本当にキスします。そういう意味ではセックスシーンで本当にセックスしてもおかしくありません。か?殺人シーンで殺人はしません。これはまあ殺人はいけませんから当然ですが、ゲロのシーンでほんとのゲロ吐いたりしませんね。しますか?してるのもあるかもしれませんね。

ハードコア・ポルノでは演技としてセックスをします。当然私生活とは別の見せるためのセックスですから、これは明確にある種の演技ですね。
普通の映画でフリではないセックスを入れると過激だと騒ぎになります。多分、過激な性描写をさらに踏み越えるとそれはポルノということになってしまいます。
ポルノと普通のドラマとの違いは何でしょう。性や生理現象の演技と普通の演技が種類の異なるものであるということぐらいわかりますが、少し突き詰めると、なぜ種類の違う演技であるのか、根源的なところで謎に包まれます。

お芝居の中にリアリティを要求しだしてから、演技の問題としてこういうことが出てきたようにも思います(カップのコーヒーを飲むシーンでさえ実際は空のカップで飲むフリをする由緒正しい昔の演技も大好きです)
あれこれ考えますが答えはわかりません。大変難しいテーゼであると思います。難しいので一旦逃げます。

さて「ベーゼ・モア」ですが、マニュとナディーヌの女の子二人のお話です。映画の最初はこの二人は無関係です。それぞれの事情が別々に描かれます。序盤はドラマっぽいですよ。なかなかよく出来ています。で、それぞれの事情で大変なことをしでかして、そして偶然出会って意気投合、二人で旅をすることになります。
行く先々で誘惑、強奪、セックス、殺人を繰り返し、青春を謳歌します。リアリズム風の作風なのに猟奇っぷりは異常で、そこにリアリティはあまりありません。

この映画を嫌う人もきっと多いでしょう。「ポルノ女優を起用して過激なことさせて過激さを煽ってるだけの映画」とか批判する人きっとたくさんいたでしょうね
しかしただのセンセーショナルな映画であったとしても、ただセンセーショナルな映画の何が悪いのかと。そういうふうにも思います。

何となくヤケクソな映画にも思えます。社会批判の目を向けることもできなくはないですし、荒々しい演出に価値を見いだすことも可能です。フェミニズムの見地から、女性の反旗を極端に表現したものであると受け取ることも可能かもしれません。実際、パンクやフェミニストたちから大きな支持を得ています。

もちろん、過激だのポルノだのとは違う普通の良いシークエンスもこの映画にはあります。
例えば二人の犯罪者にシンパシーを感じて近寄る一般人とか、「君たちのことはすごくわかるよ、うんうん」などと近しいフリしてくるおっさんとか、いろんな文脈で鋭いシーンもたくさんあります。
ヴィルジニー・デパントはただ過激なだけの人ではもちろんありませんからね、当然ですけど。

とか何とか言いながらまたしてもポルノ談義にもどりますが。

この映画を検閲ぼかし状態で観ることによる解毒の作用についても考えます。
のんきに観ていられるのも、ぼかしが施されて安心印の無味無臭映画になってしまっているからではないのかと。我々日本人は暴力には鈍感で性器には敏感です。変態の為政者が変態的な猥褻法を作ってそれがまだ生きているからです。これは意識していても努力しても簡単には直りません。我々は皆、変態の国で変態教育を受けすぎてしまいました。
やはり作り手が意図した映像のまま観ていないとわからないことが多すぎると思います。

世の中いろんな映画があって、過激な暴力や性描写などが含まれる作品もあります。大抵は品位というかバランス感覚というものがありまして、過激さだけを売りにすることはありません。でも時々それをほんの少し踏み越える良作があります。ほんの少し踏み越える意味があると作り手が判断してそうしたわけですね。だから踏み越える意味も価値もあります。
具体的には、「屋敷女」「ファニーゲーム」「愛のコリーダ」「アンチクライスト」などが思い浮かびます。慎重さに欠け無意味に踏み越えたように思えたものには例えば「大脳分裂」などがあります。個人の感想ですよ。

「ベーゼ・モア」はどうでしょうか。わずかに踏み越えた良作の仲間だと私は思います。痛みというものがビシビシ伝わるし、真っ向勝負していますし、破滅的映画の社会的な価値もなくはないように思います。
似たような感じというと失礼ですが「ブラウン・バニー」もそのようなタイプの映画と言えなくはないですね。でも私はなぜか「ブラウン・バニー」が好きではありませんので、全然価値を感じないんですよねえ。

・・・なんだ、結局は好き嫌いだったか

というわけでポルノポルノ言うてますが、食べるシーンについても似たことをよく思います。

ものすごく厭な食事シーンをしつこく描く映画がありますよね。食ポルノと言っていいと思うんです。食事というのは逆うんこで、本来とても恥ずかしいことなんだと思わずにおれません。剥き出しの食事シーンや剥き出しの排泄シーン(そんな映画あるかな)は、ある意味性描写よりも生々しくおぞましいんじゃないかと。
最近も、この厭な厭な食事シーンのある傑作映画を観ましたが、過激さでは性描写と差がないと思います。

「ベーゼ・モア」は2000年の作品で、過激さの受け取り方も今とは違います。多分ですけど今の時代、もう過激な性描写や暴力シーンというのは、あまり過激とも思われないし、センセーショナルな売りもにならないんじゃないでしょうか。

むしろ最近のトレンドは優しさやいい人感ですよね。そういうのが支持されてるような気がします。ワルとか破滅とか破壊とか、そういうのって時代遅れになりつつあるんでしょうか。どうでしょうか。

あとですね「Baise Moi」っていう言葉は、英語で言うところのFuck MeとかRape Meとかってことらしいんです。
以前、Movie Booはgoogleから「お前のサイトをポルノサイトと認定した」とメールで通告を受けましてね、そっち系の言葉やカバーアートが入った記事ばかりが検索でヒットして普通のサイトとして扱われていないんですよ。この記事も単語だけ見たらそれを裏付けるようなことになりそうですね。いや、それが言いたいんじゃなく。
だからですね、この映画の画像や映像を探そうとして「Baise Moi」で検索したらですね、ちょっとびっくりするようなモノホンポルノやアダルトサイトがヒットしまくりますからお気を付けくださいね。というご注意を。

ヴィルジニー・デパント の興味深いインタビューがありましたのでアーカイブのところに張っておきました。こちら。ヴィルジニー・デパント

 

 

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