学校の悪魔

Bullying
バルセロナに転校してきた心優しい少年の受ける苛めを描いた2009のスペイン映画。
学校の悪魔

「偶然などない共時性だ」とユング派は言います。「偶然という名の必然」と私の口癖もあります。
公開中の新しい映画も観たいし販売されてる映画も観たいし古い映画やちょっと前の映画も観たいという贅沢なMovieBoo映画部です。ふたつ前の記事に書いた「レイプ・オブ・アナ・フリッツ」という映画を観て主人公青年の泣き虫っぷりにいたく感心して、同時期に手に入れていたこの「学校の悪魔」の少年と同じ役者だと知ったとき、またしても「偶然という名の必然」と呻ってしまいました。そんなわけで(ゴダールを挟みつつ)アルベルト・カルボ主演二作のミニミニ特集となりましたが、そんなことは皆様にはどうでもいいことですね。

アルベルト・カルボは2009年にはまだ思春期の年齢です。弱々しさがあって優しい感じで「学校の悪魔」の主人公にぴったりフィットの不憫系キャラです。「ぴったりフィットと書くな」といつも叱られていますがもう勝手に手が動いてぴったりと書くとフィットまでつらつらつらーって自動でなりますので直りません。それはともかく、たぶん「レイプ・オブ・アナ・フリッツ」は「学校の悪魔」でのアルベルト君の泣き虫っぷりに感心して起用されたのは間違いないだろうと思います。

さて苛めの映画です。社会派思想派部長のMovieBoo執筆者ですが今回は社会といじめの問題を混同させません。言い出したからキリがないからです。でもちょっとだけ書くと、苛めというのは二つの事柄に分解できます。
ひとつは犯罪としての側面です。傷害、恐喝、何でもいいんですが、きちんと犯罪として認識したほうが良いと思います。犯罪なのに「苛め」という言葉であやふやにしてしまうことが多すぎやしませんか?ということですね。
もうひとつは虐めの構図、ファシズムの歪なパロディを子供たちがやっているという側面です。犯罪とまではいかないレベルの単なる苛め、おふざけであってさえ、根源的には独裁と従う人のファシズム的構図が潜んでいます。こっちは社会の縮図と言えなくもない事柄ですね。基本社会のシステムは薄めたファシズムで出来ていて、牙を剥かないように押さえ込んでいるものの根っこは蔓延していて、ちょっとしたことで表に出てきます。戦時や今の日本の

おっとキリがないから書かないつもりなのに書き続けそうなので停めます。気を取り直して映画の話をいたしましょう。

映画進行的にはこの映画悪くありません。なかなかいい感じだし、冒頭のアルベルト・カルボの優しそうな姿を見るだけで「この少年が苛められることになるのか、早くも辛すぎてみてられない」とドキドキします。私は心優しい人間ですから優しい子が苛められる姿を見るのが辛いのです。でもホラーとかも好きですから切り刻まれたりするのは割と平気です。

辛い事情があり鬱になってる母親とバルセロナのアパートに越してきます。いきなり不愉快満点の文句ばっかり言いに来るうざい隣人がいたりします。学校でも苛められるのにアパートでも厭な奴がいるのかと最初はぞっとします。
でもこの不愉快なおっさん、このキャラが映画の中でとてもいい感じになってくるんでして、見ていてもこのおっさんが出てきたらほっとするんです。上手な使い方だなと思います。

もうひとり登場するだけでほっとするキャラがいます。ネットで知り合ういじめられっ子の女の子アニアです。この女の子と主人公少年の淡いひとときが見ているみんなもほっとさせます。
「移民の子」と苛められているこの女の子、ヨアンナ・コボという女優さんで、アルモドバルの「ボルベール〈帰郷〉」(2006)でペネロペ・クルスの娘ちゃん役をやった子でした。わおっ。わずか3年ほどでおっきくなりましたね!

学校の虐めを描きますから見ていても辛いし、主人公少年可哀想だし、おっさん出てきてーとか、校長あほかーとか、まあ皆さんと同じような素直なことをあれこれ思いつつ映画を見続けます。そういう点でこの映画はちゃんと出来ていますし、伝わるし、良いと思います。

ただ、優等生的作りの中にそこはかとなく漂う安っぽさというものもあります。ちょっと登場人物たちがあまりにも類型的であるところや、表現のお約束感とか、簡単なドラマっぽさとか、そういうところでは特にがっつーんとくるようなタイプの映画ではありませんので、過度の期待を(過度の恐怖も)しなくていいです。

ちょっと文句ついでに言うと、あまりにも頂けないのはラストの扱いですね。ストーリーのラストも何だか釈然としない無理矢理な落とし方ですが、それより最後に唐突に流れるナレーションですね、あれはまったく頂けません。つまりですね、映画の終わりに「ヨーロッパではいじめ問題が・・・○○パーセントの生徒が」と、ワイドショー的ナレーションをやらかすんですね。特にパーセントはいけません。なぜあんなのを最後の最後に入れたのか、これだけは理解出来ませんし擁護もできません。あの最後のせいでわりとすべて台無しになりました。

酷いことを書きましたが、映画の内容はほんとに悪くありませんよ。苛めひどいし可哀想だし移民の子とデート楽しそうだしおっさんいいキャラだし。映画的な文句をうだうだ言うための映画ではなく「いじめはいかん!」と素直に思うための映画です。
ちょっと検索してみたらときどき読んでるマープルさんのブログに 学校の悪魔 | マープルのつぶやきがありまして、とても素直な良い感想だと思いました。

けれど人間の尊厳を脅かすような屈辱を与える行為は絶対になくしたいですね。心から思います。

ほんとその通りで、これにつきます。変な目線でぐだぐだ言ってるのが恥ずかしくなります。

ということでちょっと反省して次行きますがまたくだらないことを書きそう。スタッフについて。

この記事書くのにデータベースとかネタをあれこれ見ていましたら、ホセチョ・サン・マテオ監督ってのがですね、この方、キャリアは多いんですがアシスタントやスタッフなんかを長年やっていて、監督作品はそう多くありません。で、2009年の「学校の悪魔」のあと記載がぷっつり途絶えてます。これは監督、この映画でやらかしたんか。大丈夫か。心配です。

製作のホセ・L・ガルシア・アローホという人も同じく、たくさんのキャリアがあるのに2009年のこの映画の後に仕事をした記載がありません。またまた心配になってきます。
「学校の悪魔」に何があったのか、ほんとに心配です。

その点アルベルト・カルボは「レイプ・オブ・アナ・フリッツ」という仕事がその後ありました(もうちょっといい映画のオファーなかったんかい)し、ヨアンナ・コボにも未来があると思います。
だから変なことを心配しても意味ないってことで。

次は苛め系映画をいくつか。

「学校の悪魔」の原題は「Bullying」で「苛め」って訳されます。「Bully」は「いじめっ子」と訳されるようです。そしてそのままずばり「BULLY」というタイトルの映画を前に観ました。「BULLY」は結構がつんと来る衝撃的な映画でしたよ。これえぐいです。いずれご紹介したいと思ってます。

苛めの構図といえばMovieBoo的には「アメリカン・クライム」が外せません。虐待の話ですが、エスカレートし重大事件に至る苛めの極端な構図が見て取れます。また別の犯罪の映画「コンプライアンス」というのもあります。完全にただの犯罪の映画ですが、やはり根底にある虐めの構図、独裁と服従の問題が横たわります。そっちついでに「The WAVE ウェイヴ」というのもありましたね。こちらはモロにファシズム教育の学校を描いてます。

権威主義ということばがあります。権威大好きってやつらってことですが、権威になりたいやつだけでなく、権威が大好きで膝元にすがりつきたい靴舐めたいってやつらのことも指します。精神分析的には同じということですね。サドとマゾが同じってのと一緒です。嫌いも好きのうちってのと一緒です。独裁と服従も実は同じだと思われますね。一体全体、なぜこのような性向の人間がたくさんいるのでしょう。それとも、人間というのはそういうものなんでしょうか。
そうだとすると「人の尊厳を踏みにじるのだけはだめだ」という考えは人間が獲得した非常に大きな叡智であると言わねばなりません。これを「人権」と呼びますね。大発明です。そして今、獲得した叡智はどこぞの野蛮後進国では崩壊の危機に

あれれ?最初に「混同しません」って書いてて嘘ばっかりやん。混同して書きまくってるやんと、言動不一致に気づいて慌ててここで停止。ではご免。

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