インランド・エンパイア

Inland Empire
デヴィッド・リンチ渾身の長編。幻想的分裂病的カオスにして複合パズル。緊張と恐怖、不安と悲哀で綴る実験的映画の大傑作。
インランド・エンパイア

圧倒的緊張感の持続で、3時間の長尺があっという間に過ぎ去ります。
リンチの作品を観てこれほど感銘を受けたのは 、作品の出来の良さだけでなく描かれる個々のモチーフが個人的に大変なツボの連続だったためでもあります。

個々のモチーフとは、映画と撮影所、ポーランド人、貧困、夫婦、娼婦、サーカス、殺人事件、象徴的な部屋、精神病、などなどです。とりわけ映画とその撮影、撮影所に関してはこの映画そのものを紐解くキーの一つとして重要な位置づけになっています。これまでにも描いてきた映画と女優の話に、撮影所というシチエーションが加わることによって、実験的映画としてのより明確なメッセージが付加されたと感じます。
ええとつまりいつものメタの話ですが、実験文学では文字表現や文字そのものに向かうのと同じように、実験映画では映画そのものに向かうのが必然であるわけですね。メタ的映画(映画を描く映画)には、記録、記憶、投射、映像、見る者と見られる者、反復、テイク、ノスタルジー、虚像、存在、時間、空間、情報といった突き詰める価値のあるキーワードが満載でして、この魅力は映画ファンにはたまらないものとなるわけです。
とくに撮影所やセットは、演じられた虚構の存在感が閉じ込められている摩訶不思議な場所で、これを上手く使うと「女優霊」にも書きましたがその恐怖感は並大抵のものでなくなります。

まずこの作品は非常に恐ろしい作品だと言ってしまいます。もうね、ほんとに怖いです。怖さの種類を、私の貧弱な映画体験で申しますと「女優霊」と「シャイニング」的怖さです。
「シャイニング」の何が怖いって、ホテルの廊下やそれからバーのシーンやパーティシーンですよね。あの怖さを思いっきり増幅させて独立させたかのような感じと言えば判りやすいのではないかと。広角レンズ使った構成なんかも美しく不安をかき立てます。
そんなわけで、まず「怖いノスタルジー」「不安感」「恐怖」来ました。

そしてその表現で突出している 実験的映画の技法、アート映画の貫禄です。アートなどと軽々しく口に出してはいけない言葉ですがこの作品をアート映画と言わず何という。各シーンから直撃される感情の高ぶりはアート作品、とくにシュルレアリスム作品から受ける独特の感情と同一です。これはいくら恥ずかしくても否定出来ませんよ。シュルレアリスムと言えばその発端は「夢」「精神」そして「舞台」です。思わず魚も溶けそうな大胆なほど露骨な超現実主義的映像美の嵐。これを本気でやってダサくならないのはリンチ師匠の巨匠たる所以です。よい子は真似してはいけません。
というわけで「アート」「舞台」 「夢」「精神」来ました。

さてストーリーです。でもその前に。
本作のような「わけの分からないシーンが次々に出てくるヘンテコ映画」を 100%の集中力で食い付かせる力の源とは何なのか、ここに注目してみましょう。
世の中にはだらだらと幻想的シーンを繋げただけの退屈でつまらない作品がたくさんあって喜ぶのはマニアだけですが、リンチ師匠が似たようなことをやると多くの人が食い付くんですよ。不思議ですね。ひとつには先に書いたよい子が真似してはいけないアート志向の出来映えの差、もう一つ重要なのはサスペンスフルでミステリアスだからです。
ヘンテコシーンを見てても、謎解きのヒント探しを夢中でやってしまうんですよね。ただの夢だろなんて放置せずに、そこに秘められた謎を解明しようと必死になってしまいます。これがあるからヘンテコシーンの面白さが倍増するんですね。完全にミステリー作品のツボを心得てます。ただのアングラ映画じゃなく、たくさんのファンの心を鷲掴みにすることができるのはこういう娯楽要素が根底に流れているからだと思います。
はい。「サスペンス」「ミステリー」「娯楽要素」来ました。

さあ謎解きです。

基本的なストーリーは、群像劇のようないくつかの話の複合体です。ややこしく絡み合っていたり無関係だったり、誰かの夢だったり、よくわからない何かだったりします。
大まかには映画女優ニッキーの映画撮影、映画内映画「暗い明日の空の上で」のスーザン、そのオリジナル「47」と、元になったポーランド民話、「47」の主演女優、ウサギたち、その他娼婦たちや男たちや謎の人たちのお話です。

構造的には4つか5つかそれ以上のそれぞれの世界があり、それらがスパイラル的に混じり合ったりするわけですが、基本ラインとしてはいくつかの仮説があります。基本ライン、つまり複数の物語の中で「で、ほんとの話はどれ?」って考えです。誰しもがその罠に嵌るでしょう。何か一本筋が通った”事実”を知りたくなるわけです。とりあえずその線で考えてみましょう。諸説、諸解釈が成り立ちます。

ひとつは映画女優ニッキーを中心とした物語であるとの説。女優のトラブルから発狂までをメインに描いているというわけですね。
ひとつはポーランド女優を中心とした物語であるとの説。霊的な癒しの話であるわけですね。
ひとつは苦労の連続だった女性スーザンを中心とした物語であるとの説。間際の小さな情報が断片となり逆スパイラルで膨張宇宙的に世界を構築したというわけですね。
他にも面白い解釈があるかもしれません。

どれを取っても説得力があり、そのための裏付けも描ききっているような感じです。複数の解釈を成り立たせるこの脚本の威力は凄いですね。
しかしどの説にも、ほんの一部説明できない部分が残されています。
本作の素晴らしさの一端はそこにあります。 いろんな謎解きや解釈を同時に成り立たせる緻密なストーリーの中に、しかし一つの説明では解決しない矛盾する要素をそれぞれに含ませるという離れ業ですよ。こういうところがが見た人を虜にする大きな要因じゃないでしょうか。
だんだんと見えてきました。
相互に関係する一部矛盾を含んだ複数の解釈に基づくストーリーが並列に存在しており、どの解釈もそれぞれ正解であるという驚愕の事実を、この際心地よく迎え入れようではありませんか。

さて詭弁論理学的に矛盾を解決する唯一の方法は外に出ることです。矛盾を内包する要素の外から批評することですが、これを文芸作品に当てはめるとお馴染みメタになります。

複数の世界が矛盾を含めながらスパイラル的に並列に存在するこの映画の世界を外から眺めるとどうなりますか。
物語後半、やたらと逆光のライトがこちらに向かって放たれますが、これは舞台の外側にいる我々を照らしている光です。映画の外側を表現してそうです。
物語内でも、映画やテレビを見る女優の姿が強調されます。
まさにメタ表現の分かりやすい提示ではないでしょうか。

この提示によって「複数の世界が矛盾を含めながらスパイラル的に並列に存在するこの映画の世界」を外側から表現したわけですが、それを表現したのが映画内である以上、その瞬間、もうメタ表現そのものを映画の外から内へと引きずり込んだということです。
まさに合わせ鏡の恐怖ですよね。

この映画の冒頭を思い出しましょう。映写機とレコードでした。

虚構とスパイラル的並列世界の宣言とも受け取れます。

冒頭で示された通り、その世界へ足を踏み入れた瞬間、我々も皆、一本のレコードの溝になってしまうのですよ。
スパイラル構造は決して何かひとつのものに収束していくことなく、時に針飛びなんぞ起こしながら再生され続けるのであります。
ここまで表現したからこその本作の新しさです。これが実験映画の貫禄です。

さて最後に、そういうややこしいことを踏まえても踏まえなくても、この映画を楽しむことができます。冒頭のレコードのシーンは全く別の意味の音楽宣言と取ることも可能です。
行き当たりばったりな特殊な撮影方法で挑んだらしいのですが、それを知るとこの作品がデヴィッド・リンチの「ひとりフリーインプロヴィゼーション」であると感じることでしょう。
そう、音楽を楽しむように全てに身を委ねてリンチ師匠の演奏を楽しむことも本作の大事な鑑賞方法です。

もちろん頭脳を駆使した謎解きと音楽のように身を委ねて楽しむことは鑑賞方法として矛盾しませんよ。両方同時にやれます。やれない人はちょっと外側へですね・・・

2006年ヴェネチア国際映画祭 栄誉金獅子賞 受賞

2007年全米映画批評家協会賞 実験的作品賞 受賞

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コメント - “インランド・エンパイア” への6件の返信

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