息子のまなざし

Le Fils
「ロゼッタ」でカンヌ国際映画祭 パルムドールを受賞したダルデンヌ兄弟の強烈な一撃。
息子のまなざし

肩越しのカメラアングル、背中、背中、ピンぼけ、あぁぁイライラする。この人はだれ?何してる人?過去に何があった人?肩越しに見える彼はだれ?ここはどこ?

そういう感じで、まるで誰かの人生を切り取っただけのように映画は始まります。

はっきり言って、映画が開始してしばらくは登場人物が何をやってるどういう人なのかということがなかなかわかりません。普通の虚構だと早い段階で主人公と状況を説明してくれるのですが「息子のまなざし」はそういう親切描写をあえて避けて観る者が集中して想像力を巡らせ主人公に迫っていかなければならず、容赦ありません。普通の虚構ではなく、ドキュメンタリーのように主人公を追うのです。人生を切り取られた映像を眺めているような感覚です。
カメラは主人公の後ろの位置にあってそれが観客の目線です。主人公の後頭部越しに、彼が何をやってるか覗くように見ます。 誰かとしゃべってるな。何か仕事をしているな。と、そんな感じです。この目線は主人公と一体となったものではないし、遠くから俯瞰しているものでもないし、とても不思議な位置にあります。主人公の肩越しから覗き込んでいるこの目線はいったい誰の目線なのか。

いらいらしながら没入していると、主人公とその環境のことがおぼろげに見えてきます。誰も何も説明してくれないし、映画的な説明的描写もありません。けれど主人公の行動を追うことでゆっくりと見えてくるわけです。このゆっくりと事情が飲み込めてくるまでの綿密な描写は強い力を持っています。
これは言ってみれば、探偵のいない謎解きを映像だけで解決しているようなものです。虚構にとって状況説明の説明臭さからの脱却は大いなる目標の一つだろうと思っています。「息子のまなざし」の序盤はそれに対する一つの回答です。
映画の広報や映画サイトの紹介文では重要な序盤をすっとばして、主人公や状況をすべて説明してしまっています。何の説明もないとお客が来ないからというのはわかりますが、あの簡単な紹介文さえ、この映画を未見の人には読んでほしくないです。主人公がどこの誰でどういう仕事でどういういきさつがあった人物なのか、その彼が誰と出会いどういう葛藤が生まれているのか、そういった事柄をゆっくりわかってくるということ自体が映画的に重要な構成になっているからです。
で、そうして事情が飲み込めてくるに付け、我々の感情移入の度合いが高まり主人公の世界に引きずり込まれます。
そして強い引力に引きずり込まれて過度の緊張状態のままラストまで駆け抜けます。

恐るべき映画です。この強烈な一撃は何事ですか。緊張感の果てのワンショットで我々観客の心は一気に雪崩れます。
この深い感動は感動という言葉を使うことすら陳腐に感じるほどの心鷲掴み状態です。「息子のまなざし」は現代社会に生きる全ての人間の教科書です。

見終えたあとも反芻・咀嚼を十分に堪能できます。

しかしこれ、主人公オリヴィエのためのアイドル映画(というと語弊もあるけど)として企画がスタートした役者ありきの映画なんですってね。それなのにこの深み。いいですね。すごいですね。

ただただ逆説的に惜しい一点があるとすれば、テーマのひとつ(かもしれない)「復讐する選択」について、観ていて心配することがあまりなかったという点です。これはダルデンヌ兄弟の寛容さと愛情と夢や希望に不信感が無いためであり、もし例えばこれがヨーロッパの容赦ない監督(例えばハネケとか)の作品だったりした日には、とても正視に耐える作品にはならなかったでしょう。

あと注目すべき点は大工仕事に関する驚くべきリアリスティックな描写です。もうリアルすぎて映画世界の棟梁に弟子入りしたような気分になれます。新世紀のプロレタリアート映画は、徹底的にリアリズムを追求した「はたらくおじさん」を目指すべきだと訳の分からないことを思った次第です。

この映画は超個人的に大傑作で強くお勧めする作品であります。ただし十分な大人になってからの鑑賞をお願いします。

カンヌ国際映画祭 主演男優賞受賞

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