硫黄島からの手紙

Letters from Iwo Jima
硫黄島の闘いを日米双方から描いた二部作の日本編。
硫黄島からの手紙

長い間かってに誤解していたクリント・イーストウッドさんのキャリアに詫びを入れようと戦争映画の鑑賞に挑戦。おっと製作総指揮がポール・ハギスじゃありませんか。

この映画の特徴はどこにあるのでしょう。もちろんアメリカ人が捉えた日本の戦争映画であるという部分であります。 普通に観ていれば普通に日本の映画に見えます。それほど違和感がありません。アメリカ人が製作したと聞けばそれはそれは驚きでしょう。クリント・イーストウッドさんの実力、並々ならぬものがあります。一体全体、こういうのを逆の立場で撮って、本国の庶民にこれほどに納得してもらえる出来で誰が一体監督できるというのでありましょうか。

しかしただ日本映画に見えるのかというとそうではなく、随所にアメリカ映画人ならではの特徴があり、実力の差を見せつけられます。
例えば一つのシーンが完結する寸前でカット割りを行う大胆編集、退屈な会話シーンでのカメラの微妙な動き、静と動のバランス、それとなく出演者の区別をしやすくする立ち位置や構図、細かいところがさすが映画立国のプロの業です。 プロの業は凄いですが、映画としては、それ以外には特に際だった特徴や新機軸、強い個性はないように思えます。

「普通の日本の戦争映画に見える」という点はこの作品に関してそれこそが特徴的であると同時に、だからちょっと物足りないという、両面を同時に持っているんですよね。良い部分と悪い部分がまったく同じことを指しているという、そんな感じです。

映画的なそんな戯言はいいとして、肝心の硫黄島の闘いについて、果ては戦争について、争い合う人間についてのクリント・イーストウッドさんの強い思いはびしびしと伝わります。

聞くところによると、当初はこの日本編は日本の監督に撮らせようとしていたらしいのですが、「父親たちの星条旗」を製作中に「わしが撮る」と自身の監督を決意したのだとか。 同じ戦争を日米双方の立場から撮るという企画のこの二部作、同じ監督が撮ることに強い意味合いがあると判断したのでしょう。

このとき重要なのは、その監督が日米どちらかに偏った思想を持っていては企画が成功しないということです。 日米の戦争を描く映画で、アメリカ人であるクリントさんが偏りなく、どちらも同じ比重で描ききることが出来たというのはこれは凄いことです。 それはつまり、戦争の敵は必ずしも「敵国」なのではない、という強い信念があってこそと思うのでありますがいかがでしょう。

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