ストレイ 悲しみの化身

Tvar
恐ろしい子を養子にしてしまう夫婦のお話、良作と駄作の境界、ロシアのホラー「ストレイ 悲しみの化身」で学べる物語る技術。
ストレイ 悲しみの化身

まずは軽いやつからいきます。ロシアのホラー映画「ストレイ悲しみの化身」というやつです。

ロシア映画ならではの独特の間とか変な個性に期待しつつ懲りずにロシアンホラーを観るわけですが、極端な毒舌で言えば「ストレイ悲しみの化身」には独特の間もないし個性もない、演出力のなさを映像処理で誤魔化しただけの雰囲気ちゃん映画で苦痛でした。うわ酷い言いよう。ですが良いところもあります。

この映画の見どころ

この映画は怖いこどもの映画で、そのちびっ子の怪演が見どころです。赤ん坊のような顔したりめちゃめちゃ怖い顔したり策士のようにふるまったりします。この子の怪演まじスゴです。あの睨み顔最高ですね。この子の最も素晴らしいシーンは公園のシーンでした。このシーンが良すぎてこの子をもっと出せよと騒ぎましたが残念ながら公園のシーンほど面白いシーンは他にありませんでした。

主人公夫婦もいい感じです。エレナ・リャドワとヴラディミール・ヴドヴィチェンコフのふたりの演技は確かなものです。
内容的にはちびっ子の策略でパパとママが豹変するプロットです。ここは面白いと思いますしメインの部分かなと思います。

野獣っぽいちびっ子ですが最初はママに懐きます。「ママ」と言葉を発して抱きつきますね。ママはめろめろです。パパは「この子ヤバいやろ」と怪しんでいてママを心配します。やがてあるときパパに抱きついて「パパ」と言葉を発します。パパはめろめろになります。こうして抱きついて「ママ」だの「パパ」だの言った瞬間にパパママがメロメロになるという、そりゃあそうなるわなー、っていうそういう流れはとても面白いです。

この映画の弱点

この映画の弱点は演出力がなさすぎることです。何がどうなってるとか、何が起こっているとか、誰がどんな関係とか、そういうことがよくわからない演出です。「シスター」や「新聞記者」と同じく、事象を表現することができず、その結果の感情表現だけを行う雰囲気ちゃん映画です。

それともうひとつ、こういう映画にありがちな謎解きシーンというか謎解説のシーンです。大抵は物知り人間が登場して全部だらだら説明したりします。謎解きを上手にこなしている映画のほうが珍しいくらい、謎解き解説シーンっていうのは難しいものなんですね。

この映画ではその大事な謎解きの解説コーナーを安直な実装で実現してしまい、少々ガクッとなります。良いネタを台無しにしたと言ってしまいたいくらい。説明係のおばさんも大概ですがそれ以前にふたつの謎の解明がiPhoneに保存されてたムービーって、しかも二つともそうって、そりゃあんた安すぎまっせ。

映像処理の濃い映画

昨今、極端な映像処理を施している雰囲気ちゃん映画をいろいろ観てきました。大抵は寒色系フィルターで画面を暗くしてコントラストを極端に上げたような映像処理ですね。そういう映画、けっこう多いです。判で押したように同じような映像処理です。これがカッコいい画面だとでも思ってんのかという、そういう映像処理を特徴とする映画は大抵ドラマや事象を描写する実力がないという共通点があります。

こうした特徴的な映像処理が世界をまたいで流行し普遍化しつつあることに関して、映画探偵Moviebooデジタル部妄想課係長の筆者はひとつの仮説を立てています。

黒いムービー編集ソフト

PremiereもFinalCtoProXもDaVinchiもAVIDも、すべてインターフェイスが黒いです。FinalCutStudioの時代、プロアプリの基本はグレーでした。色に関する仕事をするとき背景色はグレーであることは基本ですが、今ではなぜか黒です。めちゃ見にくい黒いインターフェイスでムービーの編集を行います。そのため、編集する映像が暗くなりがちというのがあります。

インターフェイス真っ黒世界では明るい映像がまぶしくてキツいのでついつい暗く調整してしまうのです。本来人間の目は明るい色を分解する能力が高く暗い部分を分解する能力は低いです。でも黒背景で映像を調整すると暗い部分の視認性が上がり長時間編集ソフトに向かっているとどんどん映像を暗くする力が働きます。

もちろんモノホンのプロはインターフェイスの色になんぞに左右されず色調調整を行いますしその技術も持っています。実力がやや残念だと黒インターフェイスの影響を受け罠に落ちます。

似た色調の雰囲気ちゃん映画のすべてが低予算映画ですから凄腕のプロとは訳が違います。ですから仕方のないことでもありますが、こんなこと言われたら作り手は書いたやつをどつきに行きたくなる筈ですのでそろそろ馬鹿馬鹿しい妄想から逃げ出します。

残念な演出

事象を表現する力のない映画は多くあります。ここは技術的にとても難しいことだと思いますので、ほどほど実力なくても映画が面白かったり面白いシーンが幾つかあれば気になりません。

人と場所と出来事、時間軸と方向と脚本上の位置、映画で出来事を表現することはこれって究極の永久学習だなと思います。これを突き詰めるのが映画と言っても、ちょっと過言。例えば絵描きが「一生デッサンの勉強だ」とか言いますが、私個人はそっちの思想の持ち主ではありませんし。でも少なくとも見ている観客が「今誰がどのようなことしているか」「どこで何が起きているか」を最低限わかる程度には表現力ほしいですよ。

この映画でも映画上で何が起きてるのか良くわからないまま話が勝手に進んでしまう部分が多くあります。

見ているこちらはぽかーんとしているのに、主人公はすべてを分かっていて、例えば「女がいた」とか、こっちは知らんのにひとり次の進行を了解していてそれを前提にセリフを言ったりします。

作ってる側はそりゃあ何が起きてるか重々理解の上ですけど観る人は初めて見るんですよ。そこのところ完全に忘れていませんか。

これに関してひとつ大事なことを改めて学習したので書かずにおれないわけですが。

志村うしろ

客は知っているのに舞台上の志村けんは罠を知りません。そこでこどもたちは「志村うしろーっ」て叫びますね。物語を表現して観客を楽しませる基本かつ最重要なことがここに含まれます。

演者は知らず、客は知ってるんです。「きをつけろ」「そっちいったらあかん」「こいつ信用できないぞ」「その子ヤバいって」客はやきもき、登場人物はまんまと罠にはまります。登場人物は観客以上にストーリーを了解してはいけないんです。これこそが娯楽映画の基本。コメディでもホラーでもサスペンスでも全部同じです。

最もやってはいけないことはもちろんこの逆です。志村が客席から見えない罠を事前に察知して対処する行動をとったとして、そこでいくらボケたところで客は何をしているのかさっぱりわかりませんし可笑しくも何ともないです。

コメディアンは舞台上で楽しく笑い転げてはいけない、楽しく笑い転げるのは客席である、という話と根っこが同じですね。

登場人物と演出家だけが事情をわかって筋書き通り勝手に話を進めますが客はまだ何がどうなってんのかわかっていないという、この感じは実力不足の映画あるあるです。思い当たる映画が幾つも浮かびます。

このように、改めて学習することもありますので、出来の残念な映画にも大いに価値があります。「ストレイ悲しみの化身」は言うほどひどい映画ではないし根っこに良い部分も持っていますから尚更よくないところをコンテクストに映画作りの難しさを学ばせてくれることになります。

ストレイ 悲しみの化身

肝心の映画について、感想としては映像処理が鼻につく退屈な演出の映画でした。でも駄目な映画ではないです。夫婦や隣人や変な刑事もいい感じでしたし、ストーリーやアイデアそのものは全然悪くない、むしろ良いんです。

人の悲しみに取り入って愛情を食らうこどもの化け物、行方不明の息子が死んだことを受け入れられず、懐くこどもにメロメロ化する夫婦、気遣う隣人、上手く作ればぐっとくる話にもクソおもしろい話にもできたと思います。

もしマルセ太郎ばりにこの映画のストーリーを語れば、なんていい映画だろうと思えるレベルかと思います。その証拠に、観ている間はつまらなくて心でボロクソ言っていたのに、こうして書きながら思い返せば結構イケてるストーリーだったと改めて思うわけですよ。

実に惜しい一品でした。

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