ぼくのエリ 200歳の少女

Låt den rätte komma in
ぼくのエリ 200歳の少女
公開年:
2008
製作国:
監督:
脚本:
原作:
音楽:
主演:
  • コーレ・ヘーデブラント
  • リーナ・レアンデション
出演:

12歳のいじめられっ子オスカーと隣家に越してきた少女エリとの出会い。ありそうでなかった新しい映画。世界で絶賛、壮絶受賞の名作ホラーをご覧あれ。

ぼくのエリ 200歳の少女

タイトルの「Låt den rätte komma in」は英語で「Let the Right One In」日本語で「正しい者を招き入れて」みたいな意味のタイトルらしい。この言葉は映画のキモになっていまして、劇中でも多重の意味で使われています。もともとはモリッシー(スミス)の曲からの引用らしく、原作者のヨン・アイヴィデ・リンドクヴィストがファンなのだとか。
原作は「モールス」というタイトルですがこれも邦題で実際は映画と同じタイトルです。そしてこの映画は原作者が脚本を書いていて、ストーリーを映画用に変更しつつ重要な部分を際立たせることに成功しています。
熟練の極みですね・・・と思いきや、まあ皆さん、この原作小説、ヨンさんのデビュー作なんですって。あらまあ天才。
その奇跡の原作小説を奇跡のシナリオ化して、それを監督したトーマス・アルフレッドソンは、舐め回すようなクローズアップとリアルな引きの描写、しっかりした映画描写とぶっ飛んだホラー要素といった相反要素をコントラストをつけて演出、狙っているのか偶然か、非常に斬新な映画に仕上げました。

ギレルモ・デル・トロ師匠も絶賛。そうですね、絶賛しながらもしかしたら悔しかったかもしれませんよ。文学的描写とファンタジー、少年少女と残虐、何となく師匠の映画と近いものを感じます。ギレルモ・デル・トロがもしこの映画を撮ったらどのような演出をしたでしょうね。

世界のいろんな映画祭で60以上の受賞を果たし、英国エンパイア誌の「史上最高の外国映画100本」の15位に選ばれるという快挙(ちなみに1位は「七人の侍」)
それも納得です。この映画はもの凄く普通なのにもの凄く斬新だからです。少年も少女もヴァンパイアもいじめっ子もスウェーデンの雪景色も家族もホラー要素も文学要素も、とっても普通なのにその組み合わせの妙技は今までありそうでなかったのではないでしょうか。

邦題「ぼくのエリ」ですが、100歩譲ってこれは良しとしても「200歳の少女」という副題はどうにもこうにも許容できません。アホかこのタイトルつけた奴ちょっと出てこんかい。というわけで「200歳の少女」という最低の副題は当サイトではなかったことにしてあげますので皆さんもなかったことにしてはどうでしょう。
日本公開の問題点として皆様挙げておられるぼかしの問題も重大です。肝心要のシーンでエリの股間にぼかしを入れる暴挙。これは大変な愚挙と言わざるを得ません。このぼかしを入れる指示をした奴、その指示に反論できなくてぼかしを入れた奴、おのれらみたいなアホがおるから日本の映画芸術は3流以下から這い上がれんのじゃボケ。でも配給してくれてありがとう。

このぼかし箇所に映っているのは愛の映画として決定的な意味合いを持つ極めて重要な映像です。原作では理由や経緯を明確に説明されているそうですが、映画ではあの一瞬の画面だけです。よって映画では原作と異なり、説明的な明快さを避け、結果的な明確さのみを表現したのだと思います。
つまり何を言いたいかというと、ここからネタバレなので注意。
あのショットで表現したのは経緯や理由や訳や秘密を明かすことではなく、性行為が不可能であるというその事実のみなのです。
そしてそれは物語全部におけるエリの存在そのものへの言及に等しいとも言えます。原作では明確でも映画では曖昧にしているエリの性について、一切の説明を排除する代わりにあのショットを用意したのはまさしくエリの性を超越した存在感を示すために他ならず、ということは少年オスカーの愛も性を超越した愛であるという宣言に他ならず、それはそのままこの映画全体のキモである未成熟者による性愛を伴わないピュアすぎるゆえに壮絶な愛の形を表現するための短いショットであったという、そういうことなのでありますね。

このテーマを感じ取ると真っ先に思い浮かぶのは我らが楳図かずお大先生の一連の愛の物語です。例えば「わたしは真悟」には強烈に愛し合う少年と少女による性愛を知らぬが故の壮絶きわまりない愛の形が描かれます。

ヴァンパイアと言えばエロティシズムです。紳士的なドラキュラ伯爵が胸元あらわな美女を抱きかかえ首筋を噛むという素晴らしいエロ加減が一大特徴ですね。これを正々堂々子どもの世界でやらかしたのだからエロティシズムについての様々な描写も半端じゃありません。
冒頭から半裸のオスカー少年ですし、エリの描写しかり、父親とその恋人らしき人の撮り方しかり、母親との歯磨きシーンしかり、随所にサブリミナル的エロシーンを挿入し背徳のイメージを植え付けます。その果てに来るスーパープラトニックな究極の愛を際立たせるんですねえ。

12歳の愛と性を考えればもう一つの重要な要素が自然に思い浮かびます。残虐性です。雪のように色白ないじめられっ子オスカー少年ですが、初っ端から残虐性を秘めている描写が満載です。
エリはこの残虐性をいち早く見抜き、筆おろしならぬ残虐おろしに荷担します。
オスカーの残虐性は、彼の赤ん坊のような童顔からときどき顔を覗かせ観ている我々をハッとさせます。エリに対しても、戸惑い、憧れ、恐れ、高圧、愛と次々に変化する感情をぶつけ、目まぐるしいのです。
これをエリがしたたかにコントロールしているのか、したたかじゃなくコントロールしているのか、その辺は実に曖昧です。そこんところも面白さの秘訣です。
残虐性が開花する一瞬を表現したいじめっ子に反撃するシーン、あのシーンよかったですね。あの瞬間だけカメラが引きに転じます。大変良い演出でした。
この映画を「ピュアな子どものピュアな恋」の映画みたいに思ってると大火傷を喰らいますよ。オスカーの残虐性は見逃してはならない大きな要素です。

エロティシズムと残虐と言えばホラーです。
ホラーって文芸の基本ですよね。
この映画はホラー映画に新しい文法を持ち込み、見事に成功させました。その文法は我々から見ると北欧映画独自の世界観に基づくものですが、作った本人が北欧っぽさをどの程度意識しているかは判りません。この映画が本気の傑作なのか偶然の傑作なのかは判断しかねるところです。
例えばフレンチホラーは培ってきたフランス映画らしいねちっこさや痛さを見事にホラーと融合させ一大ブランドを築きました。「ぼくのエリ」が斬新さに満ちているのもスウェーデン映画が培ってきた子どもの描写や雪の閉塞感、人々の個性的な振るまいに今風のホラー要素を上手に融合した点にあるのは間違いありません。
極めて日常的な中のヴァンパイア像をこのような描き方で完成させたことは快挙と言えましょう。

ただ「偶然の傑作なのかわからない」と書いたのには訳があって、映画で感心した部分と、原作やシナリオ上の設定が多少乖離していると感じてるんですよね。
エリの素性についてもそうですしオスカーの葛藤についてもそうです。両親の描写もですね。余り書くとバレすぎるので詳しくは書きませんが、映画から受ける印象ほどには、原作・シナリオ上の設定は優れているわけではないんですよ。説明を省略したからこそ、観客に委ねる部分で高評価を得ることにもなったと思っています。もちろんそういう効果を判って説明的描写を省略したのは間違いないでしょうし、「偶然」などと言っては失礼なのですけど。

他にも見どころは沢山あります。いじめっ子グループのあの弱そうなぼくちゃんとか、可哀想な被害者のあの人この人あの奥さん、おじさんたちの飲みともだち、病院のシーン、クライマックスの洒落たあのシーン、寒そうな雪の景色、美しい森、可愛い猫たち、無邪気なオスカーのソリやプールのシーン、七変化するエリの姿、いろんな要素がてんこ盛りで広く皆様の興味を引きつけるでしょう。

この映画を見て思いだした作品、前述の「私は真悟」ともう一つ、我らがダリオ・アルジェント師匠の「愛しのジェニファー」であったことを申し添えておきましょう。賛同は特にいりません。

どうやらハリウッドリメイクが完成して公開された模様。オリジナルを作った人々には大金と名誉が転がり込んで良かったと思いますが、この映画のハリウッドリメイクはどうなんでしょう。
出演者は「キックアス」のクロエ・グレース・モレッツ、「ザ・ロード」のコディ・スミット=マクフィー、「扉をたたく人」のリチャード・ジェンキンスと思わずごっくり期待したくなる人選ですが、ハリウッド映画が少年期のエロティシズムや背徳の愛、いわんや12歳少女の股間を描けるとは思えないので、そっち系テーマ以外の部分を描いた映画になるのでしょう。つまり普通ですね。監督は「クローバーフィールド」のマット・リーヴスってことで、これはまったく期待できません。よりによって「クローバーフィールド」ですか・・

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