フランドル

Flandres
フランドル派として美術で有名なフランドル。寒くも美しいそのフランドルの景色と若者たち。荒廃と戦争。精神と行為。崩壊と静寂。
フランドル

フランドルの冬景色はかつてそこで花開いた美術運動を連想させる美しさです。

フランドルのどこか田舎の村ですが、そこに住む少女は妖精のような美しさを携え、刹那的セックスに明け暮れます。
お相手の青年たちは戦地へ出向き、今度はそこで残虐行為に染まっていくというまあ、そういうストーリーなんですが、ストーリーそのものにあまり大きな意味合いはなさそうです。
田舎の村、どこか遠くの戦場、シーンは連続していますが映し出されるのはずっと断片です。断片断片断片。寓話のように断片が映し出され、精神を病んでいく少女と戦場で殺戮に没頭する若者たちを交互に映し出すのみです。
すべてのシーンが絵画のように美しく、切り取られた断片はそれぞれが独立した美術作品のごとくです。
それら断片を見て行くにつれ、不安感や焦燥感に満たされていくでしょう。

この映画はフランドルの田舎と戦場を描きながら若者たちの内面をえぐり出す作品・・・と言いたいところですが若者の内面なんぞ全くえぐりません。描くのは表面のみです。表面から内面を推察することはある程度可能かもしれませんが、そういう読み解きは野暮であるとすら感じさせます。若者たちの表面それ自体を断片として描くクールさが芸術的映画たる所以です。彼らの表面は青春映画として見ることも出来るし、より普遍的な社会に対する警鐘と見て取ることも可能です。風景の一部と見なすこともできるでしょう。その風景すら、何かを語りかけることなく、認識される風景としてただそこに在るという、その存在を自覚する観客の行為において若者たちの表面、フランドルやどこか異国の戦場の意味するところは・・ただそこに存在する存在です。おお、それはつまり言うなれば現存在、つまりダーザインでありますな。ハイデガーやおまへんか。なんだ哲学だったのか。

映画というものが芸術の範疇であると思い知らされる作品ってのがたまにあります。懐の深い映画大国フランスならではですね、こういう映画がちゃんとあるっていうのは。映画のダイナミックレンジの広さというか、大事です。

監督のブリュノ・デュモンは、キャストに無名役者やアマチュアを使うことで有名らしいです。なんと、奥の深い凄い演技をするなあと思っていたけど、あれは演出家の腕前ですか。こりゃたまげた。
少女バルブを演じたアデライード・ルルーの体当たり演技は見物。「フランドル」の後は2008年「セラフィーヌの庭」に出演しています。
それ以外のキャストは、ちょっと調べても「フランドル」以外に出演してません。

第59回カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリを受賞。
納得。

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