エンター・ザ・ボイド

Enter the Void
ギャスパー・ノエが「アレックス」以来7年ぶりに完成させたのは「アレックス」の発展型とも言える究極のラリリ映画にして究極のリアルタイム一人称視点ムービーにして極限の愛の映画。
エンター・ザ・ボイド

映画館で堪能することをおすすめします。と言いながら私は見損ねた。だってちょっとの間しかロードショーしないんだもん。残念でなりません。

はからずも「倫敦から来た男」の次に紹介することになった「エンター・ザ・ボイド」は色んな意味で「倫敦から」に似ています。

まず映像美を中心に展開する点です。そして長回しです。もっとも「エンター・ザ・ボイド」の長回しは実際の長回しではなく、長回しのように展開する演出ですが。そして「時間の省略」を放棄する点も共通です。極端に言い切れば「エンター・ザ・ボイド」は140分間、一切の省略なしにすべて主人公視点によるリアルタイムで描かれる物語です。実はこのリアルタイムの中身はフラッシュバックや思い出や所謂 “走馬燈” や霊的タイムスリップなどを含めているので現実的な意味での省略なしとも言い切れないのですが、一つの虚構として劇中主人公の140分間の出来事であることには相違ありません。これは快挙です。

文学史上には一切の省略を拒否した作品が存在します。近年では「虚人たち」のような極端な実験的文学もありますが、いずれも「文字を読む速度」と「物語上の速度」の一致はあり得ませんから、そういう意味でこれこそ映画にぴったりの、映画ならではの表現技法であると言えるかもしれません。誰がどう見ても140分間の物語なのですから、時間の設定が完全に一致します。

映画ジャンル的にはPOVの技法がすでにお馴染みです。劇中撮影です。登場人物が撮った映像そのものが映画本編であるという、いわゆる「一人称ムービー」ですが、本作も最初はビデオで撮影してるのかな、と思わせる映像からスタートします。しかしこれはビデオ撮影の画面ではなくて、そのものずばり主人公の目線なんですね。瞬きの表現さえ入ります。
この瞬きの表現を見て「あっ。『虚人たち』の映画版だ!」と胸が躍りました。

「虚人たち」風に言えば、この作品にはギャスパー・ノエが自らに課したルールがいくつもあることが見て取れます。箇条書きにするような実験的技法ルールがあり、最後には「以上のルールに基づいて描かれる本作品は、それでも客が飽きない面白さを提供しなければならない」みたいな筒井さんと同じような締めくくりがあったのではないかと勘ぐります。

野暮を覚悟でもう一つ筒井風味を感じ取ったのは「エディプスの恋人」のあのラストのあれとの類似。あのあれと似たような、あれの時の入れ替わりシーンがあります。

かなりの実験作であるにも関わらず物語を堪能することが出来るし、ドラマを見守ることが出来るし、なにより面白い。この、面白さの部分は決して外すようなことがないのですね。

アレックス」で用いた「ぐるんぐるんカメラ」による「ぐるんぐるん映像」をより発展させた技法が全編にみなぎります。ビカビカの点滅やラリパッパを表現する抽象形態もパワーアップ、幽体が飛び回り、いつかお空を飛んでみたいなのあの夢を叶えさせてくれます。

兄妹の愛、近親相姦、ドラッグ、死者の書、幽体離脱、魂、走馬燈、輪廻、受精・・・テーマは”そっち系”でも全く厭味がありません。スマートなもんです。最後には手塚治虫作品を彷彿とさせる愛と性の物語として完結。なんというピュアな映画でしょう。

子供みたいな顔で美しいお体のパス・デ・ラ・ウエルタは「リミッツ・オブ・コントロール」でも惜しげもなく肢体をさらけ出した今最も注目されている体当たり女優ですね。本編でも一部えぐいシーンがありまして、ギャスパー・ノエは日本のぼかしについて小馬鹿にしたような呆れたような発言をしていますが、あのシーンにぼかしがなかったらまことに恐ろしいシーンであったと思われまして、そういうシーンを直視することが出来ない我々日本人、これは幸いであると言えるのか過保護の子供と言うべきなのか、いずれにせよ懐が深い愛の国で尚かつ芸術の国フランスの足下にも及ばない未成熟さを感じずにはおれませんです。

そうそう、この映画の開始直後の超カッコいいオープニングは必見ですね。うおーっと声が出てしまうほどのカッコ良さ。超クール。

2011.01.09

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