フォーガットン

The Forgotten
息子を飛行機事故で亡くしたことから立ち直れない女性(ジュリアン・ムーア)が遭遇する息子の記録抹消事件。息子の写真やビデオ、思い出の品々が消え去った。何が起こったのか。
フォーガットン

息子を亡くしてちょっと心が病んでいる母親がある日写真から息子の姿が消えていることに気づきまして、それを発端に息子の生存した証が全て消え去っていることを発見して驚愕します。
夫に訊くと「何言ってんだ、息子なんていないだろ」と一笑に付されて、ますます心が乱れる母親。
息子の存在を消しているのは誰なのか、それともいない息子をいたと思い込んでるだけなのか、ジュリアン・ムーアの胸騒ぎのような迫真の演技が光ります。

というようななかなか見応えのある映画でして、演出もいいしジュリアン・ムーアもいいし、食い入るように前半のめり込みます。この前半の演出がもっと安っぽければ、後半あれほどの衝撃を受けなかったでしょう。

Movie Booはネタバレをしないと宣言していますが、時々バレバレの紹介をしています。紹介といいながら、見終わった人にしかわからないような感想を書いたりもしています。とてもいい加減なサイトです。

この「フォーガットン」という映画、これもう5年以上前の映画ですからネタバレ的なレビューになることをご容赦ください。
ネタバレを臭わされたくない方は、ここまでにしておいてくださいますようお願いします。
これ以降、ネタバレに近い匂い立つ感想文となります。

ではDVDカバーアートの広告でお楽しみください。ここで一旦コマーシャル。

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はい。というわけで「フォーガットン」の衝撃についてです。
この映画、前半から中盤、とても良いスリラー映画となっています。先ほども書いたとおり、演出もいいし構図も冴えてるしジュリアン・ムーアの危ない存在感も抜群です。不安感、母の愛、狂気、孤独、いい感じです。このままオチへ向かってどんどん盛り上がることを否が応にも期待するんですが、ところがどっこい、生半可な気分でこの映画を見ていたら痛い目に遭います。
後半の後半、唐突に衝撃の展開が待ち構えております。

公開当時「最も衝撃的なスリラー」と宣伝したらしいのですが、あまりの衝撃のため、この映画は後に「もっとも笑撃的」と揶揄されるようになります。

どのようなオチなのかはネタバレしません。
しかし、この映画との比較のため「フロム・ダスク・ティル・ドーン」の名を出せば大体察しはつくでしょう。
つまり、まじめにまじめに描いてスリラーを、後半ひっくり返して別のジャンルの違う映画のように変化させてしまうのです。

ストーリーの半ばで全てひっくり返すような急展開を持ってきてお客を驚かせるというこういう展開、物語を作る人間にとっては一度はやってみたい禁断の技法のような気がします。
途中で主人公が別人に切り替わったり、戦場バイオレンス映画だと思わせて実は宇宙人侵略モノだったり、いろんなどんでん返しの映画があります。

その中で特別に抜きん出ていると思っているのが「フロム・ダスク・ティル・ドーン」で、これは物語のひっくり返し方がもの凄く極端な上に、前半の物語も後半の物語もどちらもめちゃくちゃ面白くて、しかもドタバタでギャーッっていうぶっ飛び方のテンションが高すぎて映画好きの喝采を受けたという希有な例です。

「フォーガットン」も同じように、中盤までのミステリーとサイコに満ちたスリラー映画が、後半トンデモ作品へと変化します。
しかし、それに狂喜して思わずスタンディングオベーションをしてしまうような「フロム・ダスク・ティル・ドーン」的盛り上がりは残念ながらまったく感じません。どちらかというと馬鹿馬鹿しいだけです。
その原因のひとつは、トンデモ展開させるわりにはぶっ飛びが足りず、ギャグにもなりそこね、母の愛みたいな安っぽいテーマが一本映画を貫いているから急展開も中途半端、生真面目さが荒唐無稽さの足を引っ張って消化不良に陥るからです。
ジュリアン・ムーアのシリアスな演技力も仇になり、ほとんどの観客が前半のテイストのまま話を続けて欲しいと思っただけで、後半のトンデモを面白がれないのではないでしょうか。

2009.07.27

さてそういうわけで今ごろこの映画を紹介する意味はたまたまということ以外にありませんが、この映画を見てあなたは怒るでしょうか、呆れるでしょうか、大いに笑っておもろいおもろいと膝を叩けるでしょうか。

怒りの発動というのはその人の許容量の限界値を超えたときに起こります。器の大きさ、ケツの穴の小ささという言い方がありますがそれと同じですね。限界値が下にある人は些細なことで怒ります。
もうひとつ、限界値を含む許容量全体を包む世界認識能力というものが密接で、限界値と世界認識能力はセットになってます。
世界認識能力によって認識できる世界の広さもまたひとそれぞれで、広い視野を持つ人もいれば狭い視野しか持たない人もあるというだけの話ですね。
この世界の中に許容限界値があるわけですから、狭い世界しか認識できない上に許容限界値が低い人というのがいわゆる「視野が狭くてちょっとしたことで怒る人」、その逆が「広い視野を持ち寛容な人」と、こうなります。

人は悲しい生き物でして、いつも身の丈の想像力から外になかなか出られません。世界認識能力はストレスやパニックなど心理的要因ですぐにその大きさが変わってしまったりします。大きな認識能力がある人でも、ちょっとしたことがきっかけで小さい世界に逃げ込んだりしがちなのです。
ある大きなものに対しては怒りも発動せず、それどころか目にも映さず、存在すら感じずという位置に立ちながら、潜在的に感じている怒りを身近な小さなものに転嫁するということが起きます。
身の丈の小さなものに対する怒りの発動は人間許容値の最下層に位置する限界値です。

例えば東京電力と政府とその仲間たちによってもたらされた大災害という巨悪があったとしましょう。大きなストレスや心理的パニックのために世界認識能力が小さくなってしまい、その巨悪が認識の外に追いやられてしまいます。巨悪は認識できなくなり、その代わり小さくなった認識できる世界の中に収まる日常的な些細な不満が際立ってきます。ここに来ると許容限界値が下がり、怒りの発動が起こりやすくなります。見える外側にある巨悪に対する怒りとストレスは、見える世界にある別のものも転嫁され、怒りの対象として捉えます。その結果どうなるかというと、タバコやパチンコや自動車や自転車や近所のおっさんやマナーの悪い餓鬼やつまらない映画のオチなどに対して過敏に怒りを覚えるという、そういうことになってきます。
この状態に陥ると操られることが容易くなり、ものすごく簡単にファシストに利用されます。手玉に取られるということです。
気をつけましょう。

おっと余計な話が長引きましたが「フォーガットン」を見てどう思うかですが、怒る人、呆れる人、笑う人、いろいろあるでしょうという話でした。
怒る人は許容量の限界値がちょっと低すぎますので精進しましょう。
大笑いして膝を叩ける人は限界値が高すぎて私も及びませんので師匠と呼ばせていただきます。
ほとんどの人はただ呆れるだけだろうと思います。

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