ヴェラ・ドレイク

Vera Drake
1950年のイギリス。主婦ヴェラ・ドレイクはやさしくて勤勉で献身的。家政婦として働き、年寄りの面倒を見、困った人がいれば助けます。
ヴェラ・ドレイク

ヴェラ・ドレイクは最愛の夫と二人の子供を持つ母親です。おばさんです。この人の優しさは並みじゃない。よく働き、人を愛で、そして助けます。時には恋のキューピットみたいなこともしたりして、もうほとんどこのおばさんのアイドル映画と言ってもいいほどです。
困った人を助けるヴェラですが、彼女の前に法は無効です。つまり、望まぬ妊娠をしてしまった困った女性がいればやはり「助ける」のです。

違法な堕胎の手助けは彼女にとっては秘密の行為ですがその行為を行う動機は一貫してピュアな人助けです。

さて「ヴェラ・ドレイク」の見どころは沢山あります。まずは何といっても役者。

ヴェラを演じるイメルダ・スタウントンの魅力は抜きん出ています。この自然な演技は観る者すべておばさんラブの虜にすることでしょう。
イメルダ・スタウントンはイギリスでとても有名な名女優。舞台では多く受賞経験もありテレビでも大活躍だそうです。

ヴェラだけではありません。妻への本物の愛に満ちた夫(フィル・デイヴィス)がまたいい。弟の修理工場で働くきょとんとした目の優しい夫。モンティ・パイソンでいうとグラハム・チャップマンが演じるロンドンの紳士みたいです。この夫がまあ妻のことを愛していて信頼していてほんと素晴らしいです。夫ラブになること間違いなし。
そして2人の子供、おどおどした女性エセル(アレックス・ケリー)と青年シド(ダニエル・メイズ)、そしてひとり暮らしのレジー(エディ・マーサン)、そして夫の弟フランク(エイドリアン・スカーボロー)。素朴で愛すべき家族たち。何という味わい深さ。顔も面白いし。
家族だけに留まらず、他の登場人物も単純すぎず個性的で不思議な魅力を持った面々です。これらの人々は本当に1950年からやってきたのかと見紛うほどのキャラクターで、細かい工夫がなされていることに気づくでしょう。

1950年と言えばこの映画の全てのシーンが50年のイギリスを表現し尽くしています。風俗から建物から部屋の壁紙から調度品からキッチンから衣装から小道具まですべて、空気感さえも再現できているように感じます。
このノスタルジックなすべての舞台がまたひとつの大きな見どころであることは間違いありません。

完璧に再現されたノスタルジックな世界でヴェラと家族の味わい深いドラマが展開されます。映像も大きな部分です。それとなく構図も凝っていて、美しい配置でハッとするようなショットも多くあります。ときどきゆっくりとカメラが動く映像も交えて大変効果的。色合いや粒状感も含めて、映像表現も見どころの一つ。

と、このような中で物語りが進行し、素敵なホームドラマと平行にヴェラの「人助け」が描かれます。堕胎についてもまるで日常の一端であるが如しです。見ている間もこの作品が社会派映画であるとは微塵も思えない作りです。物語半ばまで、完全にノスタルジックな英国映画として没入させられたあげく、最悪のタイミングで訪れる法との対峙。これはきつい。この脚本、これ悪意ですか。なんという攻撃。かなり辛いです。

後半、どうなってしまうんだろうという心配と共に、ヴェラの悲哀へと物語が移動してしまいます。個人的には悲しみの表現がちょっとくどいかなと思わないでもありませんが、何事にも完璧なものなんてありません。どう感じるかは人それぞれ。私はちょっとくどいと思った←しつこい

ネタバレするつもりはありませんが、まあだいたいこのような展開は予想できる範囲と思いますので紹介がちょっとだけ後半部分にさし掛かってしまいました。

ヴェラの人助けは法を犯すことに他ならず、その法はと言えばもちろん当時の法、宗教と女性差別を根っこに持つ昔の悪法です。しかし堕胎禁止思想は現代においてさえまだ威力を持っており、どこぞの狂信者たちが「堕胎を手助けする医者は射殺すべし」とか恐ろしいことを言っているのもまた皆様ご存じの通り。

じつはこの映画のすごさを強く感じる部分がラストにありまして、それについて一言だけ言いたいんですが それ言うと効果半減かもしれないんでどうしましょう。

監督・脚本のマイク・リーは映画監督、脚本家、舞台監督でもありまして、「ネイキッド」(1991)と「秘密と嘘」(1996)で二度もパルムドールを受賞しています。
この方のほとんどの作品はセリフが即興だそうです。俳優たちとキャラクターを練り上げた上で即興で演じさせるんだとか。
「ヴェラ・ドレイク」もそうでしょうか。
単なる即興ではなく、キャラクター創造を徹底的にやった末に出てくる自然な言葉ならではの説得力と味わい。登場人物の人間的な深みは、監督と俳優で丁寧に作り上げた結果の賜なのでしょうね。

というわけでこの映画にはある意味衝撃のラストが用意されています。

なんて言い切ると誤解を与えかねませんが、もちろんストーリー上のどんでん返し的な衝撃のラストなんかじゃありません。うっかり気づかない程度の衝撃のラストです。うっかり気づかない程度ながら、大きな一撃が用意されています。

それまで丁寧に描いてきたホームドラマの断片を全てひっくるめて、映画全体をひとつの時代・社会としてまとめ上げるという大技です。ラスト近くの、ほんのちょっとした言葉のやりとりの中にそれがあります。その一言二言が、突如としてこの映画をとてつもない社会派映画へと引っ張り込むんですね。
ラスト近くのセリフは、ヴェラとその家族が時代・社会の中にいる位置というものをあぶり出します。これまでホームドラマとして描いてきた中心人物であった彼らを、社会の中で相対化してしまうという威力を持っています。相対化すなわち、他の家族、他のおばさん、他のいろんな人、それらを含む社会、それらを含む時代というものを意識させるということです。
さらに、それら時代と現代との比較、違うところや同じところ、そういったところまで観る者の想像を呼び起こします。
これには心臓が飛び出るほど驚きました。

単なるおばさんアイドル映画なんかじゃない、この映画には美しい構図、優れた脚本と即興の言葉、素晴らしい役者、出しゃばらない社会へのメッセージといったノスタルジー系ホームドラマ的社会派映画表現のひとつの理想が詰まっています。

ヴェネツィア国際映画祭 金獅子賞と主演女優賞。

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