アメリカン・クライム

An American Crime
1965年に起きたバニシェフスキー家の虐待事件を映画化した作品。実話ベース、虐めの構図。
アメリカン・クライム

「アメリカン・クライム」は「隣の家の少女」と同じバニシェフスキー家の虐殺事件を題材にした映画で、共に2007年の作品。同じ題材のそっくりな映画が同じ年に作られ「隣の家の少女」は公開され「アメリカン・クライム」は非公開作品となりました。
あまりにもきつい内容のため、両作品を見比べるという行為に二の足を踏んでいましたがやはり興味が失せなかったのでこの「アメリカン・クライム」も遅まきながら観てしまいました。

はっきり言って「隣の家の少女」なんかよりこちらのほうがずっと出来がよいです。というかほとんど比較にならないレベルで圧勝。映画的な出来映えはもちろん、根底にある制作思想も雲泥の差です。

えー。まずガートルード・バニシェフスキーが起こした事件ですが、概要はwikiで検索されると詳しく知ることができますので譲るとして、これをどのように映画に落とし込むかが制作陣の腕前であり思想の表明になります。

「アメリカン・クライム」の構成は個性的です。まずシルヴィアが回想するモノローグで始まります。ぱっと聞いてわかるのですが、楽しい頃を回想するモノローグなのに声に張りがありません。疲れているような話し方です。事件を知って観る者にとってこれが辛いのですよ。この先の不幸を強く印象づける悲しい冒頭です。
そして一転、裁判のシーンです。すでに事件が発覚し、裁判をしているのです。まず両親、近所のおばはんが次々に証言していき、それに被せるように事件の発端から顛末までが描かれます。過去回想技法です。時々裁判シーンに戻り、子供たちの証言を交えます。
この、子供たちが連続して証言するシーンの恐ろしいこと!

物語の中盤からあまりの内容のヘビーさに観ているこちらも息も絶え絶え、冒頭にあったシルヴィアのモノローグがいつの間にかなくなっていることにも気づく暇がありません。
ラストに再びシルヴィアのモノローグがやってきます。悲しみと不条理、それに共犯者たちに対する怒りが含まれる戦慄のモノローグです。この部分に怒りが含まれていることが非常に重要だと思うのです。ここに、最も悪辣な者どもがさらされます。

最も悪辣な者どもとは誰か。
それはこの事件の恐ろしさの根本でもあります。
主犯のガートルード・バニシェフスキーよりも、もっと恐ろしい者どもが即ち彼女の子供たちを含めた近所の連中や餓鬼どもの集団です。

虐めのファシズム的構図と性的抑圧の発露

虐めの事件というのはファシズムに近い性質を持っています。つまり独裁者がいて、影響を受け支配下にいるぼんくらどもが行為を行うわけですが、このぼんくらどもが無自覚に行為をエスカレートさせ非常識を常識のレベルに変換し誰も責任を負わず反対意見を封じ込め祭りのように誰かや何かを追い詰め破壊し尽くします。
事が終わり一人ずつを問い詰めると涙を浮かべ「なぜやったかわかりません」と答える、このファシズムの奴隷は虐めや事件だけでなく、あらゆる局面で暴力を行使します。

心理的には、性的抑圧が他者攻撃への発露となる典型的な症状でもあります。性的抑圧の発露を求めている思春期の少年少女や欲求不満のおっさんおばはんたちというのは、おのれの性的不満から目を逸らし攻撃できる他者を捜し求めます。たとえば煙草への攻撃などが典型です。よし見つけたとばかり、喜々として攻撃を行います。
今だと放射能の危険を察知して危機感を持っている頭がよく想像力が豊かな人々に対して気が狂ったように安全デマをまき散らし口汚く罵るような輩がその典型です。
いつでもどこでも、こういう連中はいるのです。

ガートルード・バニシェフスキー

またしてもちょっと脱線気味なので映画の話に戻しますと、独裁者であり主犯のガートルード・バニシェフスキーを多面的に描いている点が単なるクライムサスペンスと違う点だと思います。
決して犯人を同情的に描いているとかそういうことではありません。なにやらカトリック的といいましょうか、彼女には彼女なりの線引きが感じられたりするのですね。最初の折檻をし終えた時の「はいこれでお仕舞い」という引き下がり方や「娘を守るために」という正義感です。

正義について

ここで正義についてですが、正義というのはこのように誰かにとっての強い思想を表しまして、正義があるからには悪があります。正義でないものは悪です。正義というのは悪を定義して初めて成立します。正義と悪の線引きは人それぞれで、重大な事柄に重きを置く人や些細な点を許さない人など幅があります。いずれにせよ共通点は「一歩も譲らない傲慢さ」と「悪への攻撃性」です。逆から見ると、攻撃するために悪を定義しその正当化を正義とする、とも言えます。これが正義の正体です。正義ほど胡散臭いものはありません。以上正義についてでした。

で、正義感ともう一つは悪に対する認識です。このおばはんにとっての悪は嘘をつくことと性的に乱れていることです。この二つに関しては見境がなくなるほど怒り狂います。虐待に関しても性的抑圧とカトリック原理主義的なものを感じさせます。その割にはこのおばはん自身がそれを破っておりますが、だからこそ少女シルヴィアに投影して怒りが増幅するのでしょう。
さらに関連して、このおばはんは基本的にだらしない人間ということが表現されています。お金に関しても貧乏なだけではなくだらしないところがあります。
で、時々はシルヴィアにわびたり涙を流したりして情緒的にはむちゃくちゃ不安定です。
こういう複雑な仕様です。彼女を複雑多面的に描くことを相当意識しているようです。

俳優

さてそんなおばはんを熱演したのがキャサリン・キーナーです。
8mm」「マルコヴィッチの穴」「路上のソリスト」「イントゥ・ザ・ワイルド」などに出演の実力派。インディからメジャー作品まで、様々な映画に出演されております。

そしてシルヴィアを演じたのがエレン・ペイジです。
なんと「Juno/ジュノ」と「アメリカン・クライム」は共に2007年度作品。同じ年にこの二本。エレン・ペイジ、彼女は伊達じゃない。すごいですね。
近年は可愛らしさと包容力を感じさせる女神性がさらに伸びてきて、「インセプション」ではディカプリオの相棒でヒロインで、セラピストの夢探偵アリアドネを演じきるまでに昇格しました。すごいよねえ。そんな彼女が名を知らしめたのは「Juno/ジュノ」じゃなくてその前の「ハードキャンディ」ですって。私は「ジュノ」で知ったので遅れたやつってことです。

というわけで「アメリカン・クライム」はその他演出的にもいろいろと丁寧で出来がよいです。内心「センセーショナルな事件を映画化しただけの低俗な作品じゃないのか」なんて思っていましたが完全撤回。恐ろしさや複雑さもきちんと描いていて良作、とてもよく出来ています。これを公開しなかったのは文化として失点です。

「アメリカン・クライム」と「隣の家の少女」

不本意ながらどうしても避けられない「隣の家の少女」との比較を行ってみましょう。
「隣の家の少女」は同事件を題材にしたケッチャムの原作を映画化したものです。
「アメリカン・クライム」は事件そのものを題材にした映画です。

「隣の家の少女」で描きたかったのは虐待の残虐さとエロティシズムだけです。無自覚なファシスト予備軍の集団暴行の恐ろしさや主犯ガートルードの複雑さなどは微塵も表現しません。それどころか、このファシストで暴行に参加した近所の餓鬼が主人公で、やつは大人になりエリートになりいい人になりましたよかったよかったというとんでもない映画です。

「アメリカン・クライム」は全く逆で、ガートルードはカトリックで病気で精神も若干病んでいる複雑な設定、恐ろしさのすべては貧困と集団心理による暴行のエスカレートと無自覚さにあり、都市型社会の縮図とも取れる批判的内容がテーマに含まれます。狂気の根っことしてファシズムと宗教を持ってきたあたり、この映画が多くのアメリカ人に嫌われた原因であると想像できます。
この映画を嫌う人間は、それこそずばりシルヴィアを嫌うガートルードあるいはその娘とイコールで繋がります。

実際の事件を考えに入れた場合、「隣の家の少女」は残虐シーン目的、「アメリカン・クライム」は残虐シーンを極力避けて他のドラマに注力した感じです。

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