リリィ・シュシュのすべて

リリィ・シュシュのすべて
岩井俊二監督によるメディアミックス的展開の果てに生まれた青春映画。田舎の中学生のミュージシャンへの傾倒、虐めと犯罪、現実の暗部とネット。
リリィ・シュシュのすべて

中学生の虐めや青春の暗部をテーマにしたポエミーな作品という認識で、これ、公開時にちょっと観たかったのですが機会がないままずるずると、今頃になって観る羽目になってしまいました。
当時はHD24pによる撮影や、PowerBookとFinal Cut Proだけによる編集が話題でした。岩井監督がNHKテレビに出演してPowerBookで映画の編集しているところを放映していたのですが、アップルマークのところがガムテープか何かで隠されていたのが印象的でした。

最近、岩井監督が公開していた原発問題のショートフィルムをいくつか見て、「そうだリリィ・シュシュを観たいのだった」と、思い出したというわけです。

さて「リリィ・シュシュのすべて」ですが、全然知らなかったんですがこれって映画の前にネット掲示板を使った実験的小説があって、後に原作本と映画が出来たんですってね。
そうだったんですか。そうですか。いわゆる、メディアミックス的なアプローチだったんですね。

そんなわけで、ネット小説もその存在すら知らず、それとの連携やメディアミックスも知らず、何ら予備知識も持たず、さらに旬を逃して観てしまっているのでありまして、今更あーだこーだと言いたくはありませんが、まあ、その、わけが分かりませんでした。

いえ、その、深い意味での「わからなかった」ではなくて、非常に単純な意味での「わからなかった」状態です。はい。
先日、何とか言う映画を見て「意味がわからない」と書いたことがありましたが、こちらはそういう意味ではなくて「お話がよくわからなかった」という、これ、いわゆる「私アホです」宣言ですね。
見終わってから逐一奥様に聞きました。「あれは誰。誰がだれ。あれしたの誰。あのときのあれは何。で、どういうお話」と、そんでもって全部教えてもらって、ようやく話の全体像が見えました。
私に理解不能で奥様に理解可能だったことにより、この映画自体が難解なのではなくて、私の脳味噌が足りていないことが証明されました。

これはいったい、どういう現象でしょうか。

それはもうわかっています。理解不能だったのは私が脳足りんなせいですが、かと言って映画が全然悪くないかというとそうではありません。残念ながらまずは苦言大会とさせていただきます。
話が分からなかった原因はふたつあります。

まずひとつめは役者です。
主人公の男の子が割と無個性で、そのため他の子と区別がつかなくなり、冒頭に出てきた少年はどこに行ったのだろうとずっと思ってました。その少年が出てきているのに別人として見ていたり、あるいは別の少年を主人公だと思って見ていたりしていたようです。しかもゆういちとかしゅういちとかしゅうちゃんとか、勘違いを誘発させる名前ばかり出てくるので誰が誰やらさっぱり分かりません。最後のほうでは佐々木くんという子と主人公を見間違ったりしておりました。
主人公だけではありません。女生徒が二人出てくるのですが、これの区別もなかなかつかず、さらに混乱したわけです。くのさんとつださんという、同じ二文字の間違いやすい名前もいただけません。まあ女性とのほうはちょっと見てたら区別は容易につきましたが。
このように、登場人物の個性が見た目や行動や名前で区別しにくい作りなのであります。しかもほぼ全員滑舌が悪くほとんど何を言ってるのかわかりませんから、なおさらわけがわかりません。
もし役者たちの素性を最初から知っていたら例えば「蒼井優ちゃんだな」とか「市原君だな」と、わかるのでしょうが、あいにくだれも知りません。
出演俳優たちの素性をよく知っていないとどいつもこいつも似たような顔で区別がつかないというのは役者だけに責任があるのではなくてもちろん脚本や演出上の問題です。最初から個人を判別してくれる同胞客に甘えていると言えましょう。実はこのことは日本映画の実に多くの作品に感じることなのです。同じようなタイプの同じような連中が自称個性的振る舞いをする映画を見るたびに「で、おまえ誰やねん」と思っております。
この件に関しては、顔識別能力および個体識別能力および固有名詞記憶能力に極端に劣る私の問題でもあるのですが、それにしてもこの映画は一部の個性的な子以外、全然区別がつきませんでした。

さてもうひとつは演出というか編集というか脚本というか、ストーリーの描き方です。
この映画は青春映画ですが、予想に反してミステリーの技法を使いまくります。
もっとも理解が難しかったのは序盤で時間軸をずらしたことでしょう。
登場人物の把握すらままならない状態で、いきなり時間を大きく動かし、過去の映像に切り替わります。私はこれに気づかず、最初に出てきた小学生が中学生になったのかと思ってしまいました。さらに、登場人物が多数登場し、しかも主人公が切り替わりまして、星野君という男の子が中心になります。最初の少年って星野君って名前だったのか、と、とんでもない誤解をしてしまい、誰が何かさっぱりわからないまま後半まで謎のドラマを見続けました。
思わぬミステリ技法で騙されるのは他にもあります。例のそっくり女学生ふたりが絡むトリックです。二人それぞれが同時に別々の約束である場所へ出向くというトリックはいいんですが、まだ誰が誰なのかよくわかっていない状態でトリックを仕掛けられてもちんぷんかんなだけだったりします。
つまりこうです。演出上のトリックをあちらこちらに散りばめて面白さを演出しようとしているのですが、トリックの基礎部分をちゃんと描写していないため、完全に空転しているのであります。トリックに限らず、基礎的描写、骨子のリアリズムというものが全編にわたって皆無でありまして、ずっとポエミーなままですからまるで謎の少女漫画を読まされているかのような気になります。

と、いうことで自分の理解力のなさを釈明するために貶しているかのようなことを書いてしまいましたが、もちろんこの作品は悪い作品ではありません。
架空のミュージシャンに傾倒する思春期の連中っていう文芸的設定はかなりいいです。ネットと現実の差異や意味不明の心変わりなど、思春期の少年少女たちの不気味さや浅はかさの表現も青春映画として悪くないです。
なぜかしつこい沖縄の物語も結構好きです。あの部分だけで一本作れば良かったのにと思うほどです。しかしあのしつこい沖縄シーンは何だったんでしょう。公開前当時、何度目かの沖縄ブームがあったからそのせいでしょうか。
それと映像が綺麗です。印象深いショットもたくさんありました。ポップでキャッチーでコマーシャル的な美しさです。画面全体の色調もいじくり回しておられました。
音楽はサティやドビュッシーなど、青春を象徴する名曲が鳴り続けます。ウェットで知的で絶望的。中学生くらいになるとこういうのに傾倒しておくべきですよね。

映画の前にネットで行っていたという掲示板小説というのはどのようなものだったのでしょう。掲示板上で架空のミュージシャンについて語るというようなことをやっていたんでしょうか?
「朝のガスパール」と「電脳筒井線」の後を継ぐ試みって誰もやってないのかなあって思ってましたがやっておられたんですね。

というわけで「観たいな」とちょっと思っていて気づいたら10年以上経っていたという、厭ですね、年を取ると。油断してたら10年なんて数ヶ月でやってきます。
そうそう、もう薄々気づいている方もいらっしゃるでしょうが、登場人物の区別がつかない主な原因は「おっさんだから若い子が誰でも同じに見える」これですわな。

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