サクリファイス

Offret
アンドレイ・タルコフスキーの遺作「サクリファイス」つまり犠牲です。世界の終わりと対峙する苦悩する男の物語。 どうしても見なければならないと思って、震災と同じ日の前日、この映画に挑みました。
サクリファイス

これまたどうしても見ておかねばならなかった「メランコリア」の続きで、さらにいえばどうしても観ておかねばならなかった「ストーカー」に続いて、「サクリファイス」を観ます。人類必見映画のひとつですので折りに付け観てもいいのです。
日本で公開したのは1987年。タルコフスキーが亡くなった翌年で、早い公開だと思います。
その頃友達に風呂屋の娘がいましてね、風呂屋が休日なので脱衣所で脱衣宴会をやろうってことになって、みんなで脱衣所宴会しておりますと、いえ、脱いだりしてませんよ念の為、宴会しておりますと、チルドの名付け親で最初のバンマスの男が遅れてやってきて「サクリファイス観てきた。号泣した」と報告するんですね。報告しながらも目がうるっています。そうか、それほど良いのか。「ストーカー」より良いのか。「いやそういう比較はいかん」
とにかく「サクリファイス」との最初の出会いはそんな感じで(どんな感じやねん)今でも脱衣所を鮮明に覚えています。いや脱衣所はどうでもよろしい。

今は世界はともかく日本が終わろうとしている時期ですから、今こそ終末を描いた映画を見る義務があります。「メランコリア」もそうだし「サクリファイス」の再見もそうです。映画のすべてに意味は必要ありませんが、意味のある映画が必要な時ってのはあります。
メランコリア」のタイトルを見て咄嗟に「サクリファイス」を思い出したのは偶然ではないのです。
ここでトリアーについて語ってもしょうがないですが「サクリファイス」を彼なりに昇華させた作品が「メランコリア」であるという、最初冗談で言っていたことを今では確信しています。長くなるので割愛しますが、「サクリファイス」での妻がクレア、娘あるいは主人公アレクサンデルがジャスティンと対になっているという見方をするとラース・フォン・トリアーが「サクリファイス」の何をどう昇華したかって感じるところがあるかもしれません。

「サクリファイス」はある男の物語です。元俳優ですが引退してスウェーデンの島に住み、本を書いたり美術史を教えたり哲学的思考に没入したりして暮らしています。
その彼が子供といっしょに海岸近くに一本の松を植えているシーンからです。そこで子供に語るのはアジアの教えのような寓話です。
郵便局の男が自転車に乗ってやってきます。ただの郵便局員ではありませんで、ニーチェについて語り出したりします。

主人公アレクサンデルはただのインテリの哲学思考人間ではありません。根底にあるのは憂鬱です。彼の世界に対する苦悩は序盤からたっぷりと描かれます。子供に語っているのか己に語っているのか、絶望を言葉にしたとたんに言葉による絶望に飲み込まれ周りが見えなくなります。言葉による呪縛から逃れる術はなく、彼がもし救われるとすればそれは世界が終わるときです。もちろん世界とともに自分が滅びることが彼にとっての最良の結末でしょう。

その彼の誕生日には説明不足気味な家族や友人が集まりパーティと言っていいのか、重苦しく憂鬱なパーティという名の言葉の応酬が始まります。
練りに練られた会話劇です。話の内容、立ち位置、すべてが不穏な空気の中で完璧に進行します。
パーティの最中、突如として知らされる世界最終戦争の報告。核兵器による世界の終末を知らされ、パニックを起こす妻を横目にアレクサンデルは「望んでいた世界が来た」とひとりつぶやきます。戦慄のシーンです。

その後、この無宗教のアレクサンデルが取る行動こそ、現在の状況下における日本人にとって小便ちびるレベルの感動とそれから絶望と恐怖の共有、それから近親憎悪のような不快感を感じさせるかもしれません。

終末願望を持つ厭世的な絶望人間について「メランコリア」でも書きましたが、世界の終末と自分の終末を混同しているのだという話の続きがあるとすれば、もしそれが願望でなく現実となって現れたときに果たして絶望の継続が本当に可能なのかという、そういうまさにSFでなければ成立できない精神の問題を突きつけます。世界の終末を避けるために己を犠牲にすることを心の底から望む状況にはきれい事ではない精神の闇が潜みます。世界の存続を望むのはきれい事でもないし高見からの慈悲でもないし優越感でもありません。絶望とつきあい続けてきた人間だけが知る罪の意識です。あるいは羞恥かもしれないし後悔かもしれない、発狂かもしれません。

「メランコリア」が、世界にとっては最悪でジャスティンにとっての最高のエンディングであるとするならば、「サクリファイス」は世界にとっては最高でアレクサンデルにとっては最悪のエンディングであると無理矢理言えるかもしれません。

さてそういうわけで「サクリファイス」は映像詩人と呼ばれるタルコフスキーの遺作でありまして、その特徴は最高級の映像表現です。冒頭の松の木を植えるシーンから何から何まで、長回しも含めて光と影とかそういうのも含めて、感情に訴えかける力とかも含めて、もうほんとに凄いというしかありません。で、ただ映像が凄いだけかというとそうではなくて、そこには登場人物と同じくらい重要な物語性がありまして、私は詩というものが得意でないので「詩的な映像」でなく「物語る映像」というふうに捕らえています。

映像だけではもちろんなく、登場人物たちの威力も相当です。妻や娘や友人や召使い、郵便局員に子供、いろんな人が出てきますが微妙に説明を不足させて誰がどういう関係なのか掴みきるのに一手間かけさせます。この一手間があるがために、登場人物のすべてが儚げに見えたり不穏な感じに見えたり非現実的に思えたりする効果をあげている気がします。
会話劇の部分のすばらしさはまるで舞台芸術。言葉の一つ一つ、動きの一つ一つがパワーを持っています。

震災と同じ日の前日に「サクリファイス」を再見しました。
もし己のすべてを犠牲にして神だの魔女だのに「あの日のことをなかったことにしてください」と頼めるのならどうでしょう。
「おれはお前らが嫌いだ。お前らはアホばかりで死んだ方がましで絶望の元凶である。しかしお前らが助かるんなら何でもする。おれとおれの最も大切なものを犠牲にすることを厭わない。どうかお願いします。どうかお願いします」

まずは言葉ありき。
冒頭の寓話を思い出します。世界は、絶望あるいは希望を抱くひとりの男に左右されるものではありません。
世界を救うにしろ発狂するにしろ、いずれにしても世界は変わりません。だからこそよりいっそうの絶望と、まあ観る人によっては希望というものがそこにあると、その辺はいろんな感じ方があろうかと思います。

1986年カンヌ国際映画祭で絶賛され4部門での受賞。タルコフスキーは映画完成後に病床に伏し、その年の暮れに亡くなりました。

「サクリファイス」を全身で観て、打ち震えてください。

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