コレラの時代の愛

Love in the Time of Cholera
コレラの時代の愛
公開年:
2007
製作国:
監督:
製作:
  • スコット・スタインドーフ
製作総指揮:
  • ダニー・グリーンスパン
  • ロビン・グリーンスパン
  • アンドリュー・モラスキー
  • クリス・ロー
  • マイケル・ノジック
  • ディラン・ラッセル
  • スコット・ラステティ
脚本:
原作:
音楽:
編集:
  • アフォンソ・ビアト
主演:
出演:

ガブリエル・ガルシア=マルケスの同名小説の映画化。内戦とコレラが蔓延る世紀末のコロンビアを駆け抜ける怒濤の50年間。ハビエル・バルデムの怪演がラテン文学の映画化に何をもたらしたか。

コレラの時代の愛

予告編が見せすぎ系だったために気分を害し「少なくとも数年間は封印しておこう」と決めて観るのを辞めた「コレラの時代の愛」です。見るのを辞めていたもう一つの理由はガルシア・マルケスの原作を未読なためでもありました。でも結局読んでいないのに映画を観ることにしました。
「そろそろ観てもええやろか」「ええんちゃう?」「ほな観よか」「観てみよか」ということで、年々物事へのこだわりが希薄になってきた元文学派人間のなれの果てです。

さて「エレンディラ」のような奇跡が起こらない限り、小説に匹敵するほどのすごい映画ができるわけがありません。であるからして、過度の期待はいけません。過度の期待に応えてくれそうなのは主演のハビエル・バルデムぐらいです。

原作未読なので、原作がどっち方面の系統の小説であるか知りません。比較的わかりやすいドラマか、マジックリアリズムの妙技をしゃぶり尽くせる怪作か、シリアスで重厚か、コミカルで幻想的か、どの手の方向性なんでしょうか。50年の歴史を貫く愛の物語ですから、愛の隙間に描かれる様々な人やエピソードもきっと盛りだくさんなはずです。
あぁ何でまだ読んでないんだろう。読みたいな読みたいな。

映画を観た後の感想文なのに原作小説への恋慕ばかり書いています。こりゃまた一体どういうこった。こういうこってす。

「コレラの時代の愛」というこの映画、決して出来は悪くないと思います。そつなく仕上げたと思います。でもどのシーンを見ても「原作ではどう描写してるんだろう」「このセリフは美しいな、きっと原作に忠実なんだろう」とか、そんな風にばかり思ってしまいます。つまり失礼ながら、完全に原作に負けているということです。

読んでもいないやつに「原作に負けてます」などと言われては作った人も浮かばれません。もしここに作った人がいたら私殴られてもおかしくないですね。ですので謝ります。すいません。言いすぎました。ついでに、映画ならではの面白いところを探してみましょう。

なんと言っても主人公青年が、青年ウナクス・ウガルデからおっさんハビエル・バルデムに変身するところです。
この作品、50年以上の歳月を描きますから主人公も年を取ります。役者も交代します。10代の青年時代と、その数年後から70代までのふたりです。
ひとりの人間の生涯を描いた映画でよくあるのは「子供時代」と「大人時代」で数年間の空白があって演じる人が変わるというパターンです。子役と役者で行きます。これが普通ですが、それにしたって映画を観ている側からすれば子役と役者のギャップに最初必ず戸惑います。

「コレラの時代の愛」では子供時代がありません。「10代後半の少年」と「20代前半の青年」時代で役者が変わります。年月にしてわずか数年の出来事です。青年に近い少年が、大人に近い青年に切り替わります。綺麗な顔の青年が、強烈個性のバルデムに変身します。こんな切り替えのタイミングはちょっと考えられません。なぜ突然美少年が化け物 もといバルデムに変身してしまうのか。たいていの人は、よくある「子役と大人役」の切り替え以上の大いなる戸惑いを感じるはずです。戸惑いどころか、憤慨するかもしれません。
役者切り替えのタイミングは年代的年齢的にもっと他のふさわしい場所がありますが、あえてこの場所を選ぶのはどういうことでしょうか。こういうことです。

この切り替えのタイミングは映画的にはきわめて重要な位置にあります。つまり、バルデムに切り替わった時に、一つの大きな転換を迎えるんです。
観客はバルデムに変身した主人公を見て、呆れ憤慨しています。そのまったく同じタイミングで恋の相手フェルミーナがバルデムに対峙するわけです。それまでは恋に恋するふわふわ乙女だったフェルミーナは、美青年からバルデムに変身したこの男を初めて直視し、観客と全く同じ心境になるわけですね。あんた誰、と。ついさっきまでは美青年だと思っていたけどこんな変な顔のおっさんだったのかと困惑して、一気に恋は冷め、一瞬にして二人ではぐくんできた(と思い込んでいた)愛は終わります。
美青年はバルデムに変身したとたん、棄てられるのです。そういうタイミングなんです。
バルデム泣きます。か、かわいそう。
母、なぐさめます。いいかーちゃん。

というわけでこの役者切り替えのタイミングは、映画表現的にもお話的にも登場人部の心的変化的にもそして観客の心情的にもジャストなタイミングとなります。
観客の反応をもシナリオに汲み入れた、言わば超虚構的な高度な技術です。ここは見事と言ってよいでしょう。

そんなわけで他にもいろいろと面白いシーンあります。いいセリフ、美しい言葉、幻想的時代感覚に満ちています。映画的にというよりも原作の力を感じさせてくれる箇所が沢山あります。
さっき「原作に負けている」と書きましたが、マルケスの小説が凄すぎるんであって、それに負けていても何ら問題ありません。原作に忠実であろうとする姿勢はしばしば映画としての出来を落としますが、バルデムの起用によりぎりぎりのところで踏ん張っています。
優れた原作の映画化としては、決して悪くない仕上がりだと思います。

ただしテーマがテーマなだけに、マルケスの世界を知らない観客に対しての訴求力はどうなんだろうと心配になったりもします。

愛がテーマの50年間です。普通の感動ドラマみたいなつもりで観る人も多いはずです。実際、映画をつつむ全体の雰囲気は普通のドラマです。ここが映画化のしくじった部分です。このお話、本質的にはぜんぜん普通のドラマではないのです。変な話なのです。そこを強調せずに、普通のドラマにしてはいけませんし、ましてや感動ドラマみたいな演出をしては駄目なわけです。

「百年の孤独」では、最初に森を訪れた女性が子を産み村になって街になってあれこれあって最後は滅びます。その激動の百年間、不動の存在として最初の女性がおります。
「族長の秋」も国家の栄華と衰退の激動を体験する族長の心的変化がなく、孤独に滅んでいきます。
「コレラの時代の愛」では、女性フェルミーナの愛の50年間を変化しない孤独な男が追い続けます。

50年間片思いの愛を貫く男の話というよりも、50年の歴史と、その歴史を無視して不動の存在としてただそこにある男の奇妙な対比が不思議な面白さを醸し出す話と捉えたいところです。
ということでますます原作未読が悔しくなってきたのでそろそろ切り上げます。

この映画、何度も言いますがたぶん原作の力である言葉の妙技を思う存分堪能できます。素晴らしい言葉とセリフに満ちています。言葉が本当によろしいんです。
そして知的です。そして変なお話です。節々の面白エピソードもとてもいいです。かなり笑えます。この映画の半分はコメディで出来ています。
ハビエル・バルデムの演技はやっぱり完璧です。

Catalina Sandino Moreno
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フェルミーナの親戚女性がとても可愛いです。年を取っても可愛いです。何だこの可愛い人は。フェルミーナより美しいじゃん。と思っていたらこの人カタリーナ・サンディノ・モレノでした。いやーん。気づかなくてごめんよ。

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