果てなき路

Road To Nowhere
映画を撮る映画です。映画化のモデルとなった事件、その映画を撮影する面々、撮られた作品そのもの、振り返って作品を観る人、そういった多重の映画内世界が並列に複雑怪奇に入り乱れて大きなうねりを作ります。 「断絶」のモンテ・ヘルマン21年ぶりの監督作品。
果てなき路

三人の死にまつわる事件があって、それの映画化というのが話の骨子です。映画撮影映画です。時には撮影された映画そのものが登場します。劇中劇、映画内映画です。また時には完成した映画を観ているシーンも混ざります。それどころか、映画化のモデルとなった事件そのもののシーンも混ざっているかもしれません。

映画化のモデルとなった元の事件の中心にいるのがヴェルマという女性で、作ろうとしている映画の中心にいるのがヴェルマを演じるローレルという女性です。この女性と映画監督の恋の物語も不穏な空気の中で進行します。

映画は独特の雰囲気につつまれます。というのも、映画を撮っている物語も、映画内の物語も、元の事件も、過去も未来も、パズルのようにばらばらに同列に現れます。単なるパズルにとどまらず、作品世界の時間の流れや画風がちょっとばかし独特の雰囲気でシニカルで、映画内でのセリフにあるとおりタブーながら「フィルム・ノワール」です。

私はアメリカン・ニューシネマについてはよく知りませんで、モンテ・ヘルマンの「断絶」も観ていません。「果てなき路」のエンドクレジットの最初の最後のほう(ややこしいね)には「ローリーに捧げる」という一文が出てきますが、これが「断絶」のヒロイン、ローリー・バードのことであるとついさっき知りました。

「果てなき路」と「断絶」の件については無知なあまり何も言えませんが、その筋の人にとってこの二作の繋がりがどれほどぐっとくることなのか、少し想像することはできます。でも想像の範囲にすぎません。それ以上の言及は恐れ多くてできません。

インランド・エンパイア

さて、映画を撮る映画、映画の元になった事件、撮られた映画、そういうのがパズル的にしかも絡みあって多重に展開する作品といえばそれはもうデヴィッド・リンチの「インランド・エンパイア」です。

ものごとのマニア化とは何かというと、ネガティブな部分では「先鋭化して許容範囲が狭まる」ことが挙げあれます。普通の人が見ても区別がつかないある二つのものを、お互いの熱烈なファン同士が貶し合うとかそういう事態にまで発展することがあります。

確信はありませんがちょっとだけ感じ取っただけの話で言いますと「果てなき路」と「インランド・エンパイア」を並べることは「フィルム・ノワールである」というのと同じくらいタブーなんじゃないだろうかと、「全然似てねえよ」とか「あんなに散漫じゃない」とか、もしかしたら似たもの同士で思ってんじゃないかなと、いえいえ、何となくね、そんな感じをね。知りませんけど。

話戻して、映画を撮る映画レイヤー、映画の元になった物語レイヤー、撮られた映画レイヤー、さらにそれを俯瞰するレイヤー、さらにそれらの時間軸を弄くるパズル、そういった構成と、さらにそれに加えてそれらパーツの映像表現の独自の美しさや個性的演出など、「果てなき路」と「インランド・エンパイア」の共通点は実に多いです。
その共通点から私個人が受ける印象もまた共通してるのでして、それはもちろん、私の大好物という点です。

違いはもちろんあります。むしろぜんぜん違います。似てるなんて言えないほど違います。

「インランド・エンパイア」が芸術的ホラー的不条理的悪夢的厭世的映画であり解を見つけたとたんはじけ飛ぶ無慈悲で攻撃的な映画であるのに対して、「果てなき路」はシニカルで皮肉ですが愛と哀愁に満ちていて、どこかに解がありそれを見つけたとたん心が少々動くという、ロマンティックで優しさと辛さに満ちた作品であるということです。

似ていてしかも似ていません。似てると似てないは両立します。

女優

さてこの映画、重要なのはなんと言っても女優です。謎の死を遂げるヴェルマであり謎の経歴の女優ローレルであり、監督を魅了し観客も魅了するその女性(たち)を演じた本作の中心人物こそ、ハワイ生まれの女優シャニン・ソサモンその人です。
あれまあなんという美しさ何という身のこなし何というエロティシズム、この女優すごいし何てったってこの女優をこのように撮るモンテ・ヘルマンという監督のすごさよ。

シャニン・ソサモンは多国の血を引くエキゾチックな美女でして、これまでもいろんなタイプのハリウッド映画に出演しているようですが今回初めて見ました。いやもうぞっこんです。監督ミシェル・ヘイヴンじゃなくても誰でも魅了されます。

映画の中でも「キャスティングがすべて」なんてセリフがありますが、エンドクレジットで「ローリーに捧げる」とまで言わしめるその存在感は圧倒的です。

ミツバチのささやき

哀愁というものの中にはノスタルジーという病が含まれます。映画に限って言えば、フィルムの中に切り取られたある人間の生の一瞬というものに思いを馳せるとき、時を超え次元を超える超自然的な力が発生します。すなわち過去に飛べます。

心に残る特別な映画があったとして、その中の人物は実在しますがその時間のその映画世界だけに存在する虚構の存在でもあります。たとえば「ミツバチのささやき」のアナ・トレントです。アナ・トレントは「ミツバチのささやき」のフィルムに固定された存在で、架空かつ過去の一瞬の夢に他なりません。その夢はいつでも再見することができますが、儚さと無力感に誰も太刀打ちできません。同時に、魂がその映画世界と、映画世界から想起される個人的な思いや記憶の世界に飛んで行くこともまた事実です。

なぜ「ミツバチのささやき」を例に出すかというともちろん「果てなき路」に出てくるからです。

いやもうびっくりしました。
監督と美女が「ミツバチのささやき」を見るシーンがあるんですよ。美女はこの映画を観て涙を流します。なんというチョイスでしょう。そんでもって、何という映画に対する愛情でありましょうか。

他人の夢・自分の夢

映画監督に女優が聞きます。「いままで何本の映画を観た?」監督はこう答えます。「監督にはタブーの質問だな。他人の描いた夢に心を奪われた時間を知られるのは癪にさわる」

映画は他人が描いた夢ですが、映画を観た記憶は観た人の歴史の一部になります。ただし歴史は過去です。他人の過去の夢を自分の過去として吸収することの意味をわかった上で、表現者として「癪に障る」というその気持ち、めちゃんこわかります。

では自分の描いた夢が遠い過去になったときはどうでしょう。

自分の描いた夢に出てきた人物に思いを馳せるという経験は映画監督でないと味わえません。モンテ・ヘルマンが「断絶」のローリーにどのような思いを抱いて「果てなき路」を撮ったのかは他人の誰にもわからないでしょう。

パズル

さて、この映画のパズル的要素の答え合わせなんかをする気はありませんが、凝った演出と編集の中から何となくある一つの回答みたいなのは得られそうです。いくつか腑に落ちない短いシーンなんかもありますが、きっともう一度観たりすると見えてくるんでしょうね。そこまでしませんが、ミステリーとしての不条理さはほとんどなさそうです。

「インランド・エンパイア」の名を出しましたが、あれと違って話を追うこと自体に難解さはほとんどありません。ときどき「ん?」と思わせてくれますが「何の話かすら判らぬ小難しいややこしい映画」では決してないのでして、誤解を与えてしまってはいけないのでそれだけ言っときます。
ただし最後のほうで一部、メタ要素を含む超虚構のシーンや、あるとんてもない一言があったりして、すべてをひっくり返しかねない部分もあります。

多分、ちょっとばかしややこしいけど、パズルは解けます。
でもパズル遊びの映画ではありません。解いたあとでも浮かび上がるのはヴェルマという女性でありローレルという女優でありシャニン・ソサモンという演者であり、その先にある監督の記憶の中のローリーであり「断絶」であり、それを撮っていた過去とその時代であり、喪失感であり郷愁であり、そういうのをエンドクレジット見ながら感じ取る我々観客の他人の夢に入り込むことによる複合観念であり…

Shannyn Sossamon

というわけでわけわからなくなってきたのでシャニン・ソサモンのブロマイドでも見て少し落ち着きましょう。

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