月曜日に乾杯!

Lundi Matin
今頃初めて観たオタール・イオセリアーニ監督2002年の「月曜日に乾杯」は家や村や町や観光名所や酒や煙草やおじさんや若者や老人たちやいろんな人の魅力に満ちた不思議世界の緩やか模様で映画的魅力の宝庫でこれ大好き。
月曜日に乾杯!

また個人的な事情から話が始まるわけですが、映画本編とまったく関係ないのでだるい方はどうか飛ばしてください。

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アキ・カウリスマキが来日したときにちゃんと出向いて存命の頃のマッティ・ペロンパーと共に直に本人を観たという羨ましい経験を持つお友達の版画家景井君がですね、ある日こう言うんですよ。「オタール・イオセリアーニ好きですか」
名前だけをおぼろげながら知っている程度の無知無知人間の私は最初とぼけますが、とぼけたって観ていないものは観ていないし知らないものは知りません。
「『月曜日に乾杯』観ます?ビデオ持ってるんで貸します。めちゃいい映画なんで是非観てください」
じゃあ借りるわ、ありがとう、と貴重そうに見えるセルビデオを借りました。

その頃ちょうどビデオからコンピュータに取り込む必要がある仕事をしていて、手元にビデオデッキがあったのですぐにでも観ようと思ってたんですが、激しく機器を扱いすぎてビデオテープが絡まったりしはじめました。「やばい壊れる。こんなので大事なビデオ観てテープが絡まって切れたらえらいこっちゃ」と少々ビビり始めていて、どうしたものかなーと思っているちょうどその頃、東日本大震災が起きて原発が連続破裂するという、あってはならぬがいつか必ず起きる想定の壊滅的事故が発生してそれを境に日本の歴史が変わりました。もちろんついでにあなたや私の歴史も変わりました。ところでこの事故の直接の原因のその次くらい重要な原因は、危険な箇所が具体的に指摘されて国会で対処を求められたのに「対処しません。安全安心安全安心」と馬鹿面たるませて念仏唱えながらこれを無視した当時の総理である安倍の仕事放棄のためです。そんな男がまた総理大臣になって翼賛報道が褒めよ称えよの大合唱というそんな気色悪いお笑い日本の話はいいとして、そんなこんなで、震災や事故でわーわー言うてる間に、借りていたビデオのことをすっかり忘れていたのです。

それから2年ほど経って、観ていないままのビデオをテープ破損事故に遭うことなく無事なままお返しできたわけですが、よかったよかったと言ってる場合ではなくて、肝心の中身を観ていません。こないだイオセリアーニ監督の「汽車はふたたび故郷へ」を観たこともあって、やっぱり「月曜日に乾杯」を観ないわけにはまいりません。

というわけで、当初は「貴重なビデオ作品」と思ってましたが探してみるとDVDがしっかり出てました。じゃあ折角だからもしかしたらビデオよりちょっと画質とかましかもしれないDVDで観ようじゃないの、ということでやっとのことでこの映画を観ることができたのです。おしまい。

個人的事情<!– ここまで –>

おしまい、じゃなかった。

さてオタール・イオセリアーニ監督は「汽車はふたたび故郷へ」のインタビューでも判るとおり、尺や時間感覚などにとてもこだわった監督でありまして、その力を「月曜日に乾杯」でも思いっきり感じ取ることができます。

「月曜日に乾杯」は、ある田舎町の人々がいて、ある工場労働者がいて、その労働者が気まぐれに仕事をさぼってイタリア旅行したりする話です。ですがその気まぐれ旅行もたくさんの人々のうちのひとりにすぎない程度の扱いで、強く主人公を追うタイプの映画というわけでもありません。

コメディ映画とされていますが、一般的に思い浮かぶようなコメディではなくて、笑いはありますがシニカルで謎めいた笑いといいますか、アキ・カウリスマキの映画に近いとぼけた風味といいますか、不明瞭な笑いといいますか、不思議な雰囲気が漂っています。かなり大笑いできる箇所もありますが、でもやっぱり激しく知性的で不思議な感じです。

不思議な雰囲気の原因は、まず人々の描き方に尽きます。家族や近所の人や旅先で出会う人など、多くの人が登場してですね、彼らの動きを追います。群像劇ではないですが、誰かひとりの主人公を描くというより、人々全体を描くことに主眼を置いているような印象です。全体を描く是即ち個々を描くことです。人々が何かをやっていたり、あるいは何もやっていなかったりするシークエンスが次々に出てきます。これらシークエンスの一つ一つがすべて神懸かった演出と編集です。監督の時間と尺へのこだわりを感じ取ることができるというのはこのことです。

長回しで凄まじい構成と演出を堪能できるタル・ベーラの「倫敦から来た男」という怪作がありますが、ああいう演出に近いシーンも多用されます。カメラが注目する人間が次々に切り替わり、絶妙なるタイミングで出来事が起きて時間も場所もカメラも動いていきます。見事なシーンの連続にくらくらします。

フランスのどこか田舎の村を描いていますが、まるでファンタジー世界のような空気が支配しています。大家族がいて老人もいて、ご近所もいて旅人も来ます。教会に壁画を描いたり自転車で移動したり公衆電話で恋を語ったりトラクターに乗ったりいろいろな人がいろいろなことをしていますが、この世界は実在する世界でなくフランスの片田舎を題材にした監督の世界であると思わないでおれません。

後の「汽車はふたたび故郷へ」で描いた「故郷」に通じる世界観です。特定の国の特定の場所ではなく、人の心に普遍的に存在する「故郷」という特別な世界のようにも感じます。これは観光名所を描いていてもやっぱりそうです。酒場もそうです。老人たちなんかもっとそうです。その場にいる人々の故郷感たるやまったくもってオリジナリティに溢れてます。監督の故郷に対する何か強い思いを感じたりするわけですがどうでしょう。

個別の出来事のひとつひとつもいいです。コメディとしてのへんてこりんな面白さももちろんありますが、それよりも面白さそのものを自然に受け入れて、まるでそれが変な出来事ではない普通の事のように思えてくるのがおもしろいのです。これ、かなりマジックですね。とにかくそういうエピソードの連続が心地いいんですよ。この心地よさに嵌まれれば最高の時間を過ごせること間違いなしです。

登場人物たちはこれでもかというほど煙草を吸い酒を飲みます。特に煙草をうまそうに、あるいはまずそうに吸うその華麗な姿を見ているとこちらもつられて登場人物と一緒になって煙草を吸いたくなります。これ劇場で観てたらかなりムズムズしただろうなあと。家でゆったり煙草吸いながら観る環境があって本当によかった。そんでもってこの映画を観た直後は必ずワインとかそのほかの強い酒が飲みたくなります。

人物は煙草と酒にとどまらず計り知れない魅力に満ちています。役割や設定もいろいろとぶっ飛んでます。溶接工の男にしても、「退屈な日常から逃避して旅行する労働者階級の男」っていうよく見かけるこの映画の紹介文はほとんど間違いです。彼の父親は歴戦を戦った大金持ちの亡命ロシア人だし、離婚した妻つまり母親はお洒落して高級スポーツカーに乗るハイカラさんですし、本人は溶接工ですが御曹司の血のためか極めて温厚かつ優雅、退屈な日常から逃避するのではなくて、そもそも退屈とか日常とかしがらみとか、まったく何も考えていない余裕のアーティスト思考つまりボヘミアンの一種だったりします。

他の人々も面白い人ばかりです。親しげなイタリア人、覗きが趣味の神父、蛇を捕るのっぽさん、女として便所番をしている旧友の男、酒場で歌いまくるコサックの猛者、恋する黒人、まあなんて盛りだくさんなんでしょう。

私はこどものころ安野光雅の絵本が好きだったんですが、安野氏の絵本に出てくるファンタジックなヨーロッパの街並みや、そのふしぎな世界でちょこまかする帽子を被った人達が印象深いのでして、で、そのキャラクターたちを「月曜日に乾杯」を観ながらどういうわけか思い出していました。全然関係ないんですけどね、印象として。

まあ何しろ素晴らしい映画を知ってひっくり返って大興奮でございましたよ。まだまだ知らないいい映画がこの世にはたくさんあるに違いありません。

第52回ベルリン国際映画祭 銀熊賞(監督賞)、 国際批評家連盟賞

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