宮廷画家ゴヤは見た

Goya's Ghosts
18世紀末のマドリッドを舞台に、神父ロレンソと商人の娘イネスの運命を、ふたりの肖像画を描いた巨匠ゴヤの目を通して描くああなってこうなってあんななってこんななってしまう激動系物語。「カッコーの巣の上で」「アマデウス」のミロス・フォアマン監督が、ハビエル・バルデム、ナタリー・ポートマン、ステラン・スカルスガルドを迎えて放ちます。
宮廷画家ゴヤは見た

とか何とか言いながら「アマデウス」観ていません。観たいリストに入れてから30年近く経ちまして、リストにはもうカビが生えてしまっています。でもいつか観るぞー。

そんなことはどうでもいいのでして、「宮廷画家ゴヤは見た」ですが、これはゴヤの映画ってわけではないのでした。てっきりゴヤの映画と思ってたんですが、どちらかというと真の主人公は神父ロレンソ(ハビエル・バルデム)です。そしてもう一人の重要人物、純真無垢で超美少女の商人の娘イネス(ナタリー・ポートマン)です。
彼と彼女が激動としかいいようのない歴史の中でどう揉まれてどう動いてどうなったか、そういうのが中心となります。
ゴヤはこの二人の肖像画を描いています。そんな繋がりがありまして、二人の運命とスペインの歴史を常に見つめる役となります。いわば狂言回しの役割です。みんなが激動でしっちゃかめっちゃかになる中、ゴヤだけは基本的なものを失わず(視力は失いますが)一本筋の通った傍観者としての位置づけで、映画の最初から最後まで、ロレンソとイネスを見守ります。

激動でしっちゃかめっちゃかでああなってこうなって、あんなことやこんなことになって、そういうウネリや流れの中で全体を俯瞰するキャラクターがいて、っていう、実力派監督でなければ到底料理しきれないある種、映画の中の映画です。大きな流れに身を沈めつつも、細部の繊細さと独自さがどっしりあって、僅かな重箱の隅みたいな部分を無視すれば、たいそう見応えのある見事な名作映画と断言していいんじゃないでしょうか。

狂言回し的な役割と言いましても、ゴヤの存在は大きな意味があります。宮廷の画家であると同時に風刺の漫画家でもある彼は、仕事では貴族の機嫌を取ってにこやかに振る舞う職業画家であると同時に、その裏では社会批判と告発の芸術家でもあります。
やはり根底にはゴヤの視線というものが大事に大事に描かれています。画家または芸術家としての「はたらくおじさん:絵描き編」の部分です。これは映画にとっても非常に重要なところで、序盤に丁寧に描かれる職業画家としての仕事っぷりと、ラストでたっぷり堪能できる作品群のスライドショーにはっきり見て取ることが出来ます。

ここで歴史的大巨匠と自分をダブらせて何やら語りたがっている畏れ知らずの書き手がひとりおりますが、つまり職業としての画家と芸術家としての批判者の二面性を持つゴヤがどう生きたのかというのは、これは私にとって命のような大きなテーマとなっておりまして、大変興味深いテーマです。
ゴヤは「手を描いたら割り増し」とか、描くモノによってクールに値段をつけます。ずっと後の時代、キリコもそうなりましたね。「馬一匹描いたらいくら」とか、そういう風に仕事を引き受けてずいぶん批判にも晒されました。私はこういった職業人としての姿勢を完全に支持します。畏れ知らずのまま書きますが私ももちろん似たような見積もりを作成します。そもそも自分の商売を始めたとき、価値の付いたの大先生の値段はともかく、技術職としての絵描きの世界がアバウトすぎたり安っぽすぎると感じていて、少なくとも他の職業、例えば塗装業や大工などといった職業の見積もりに近い製造代としての価格を認めさせたいという目論見がありました。おっと、この先は何か書き出すとまた止まらなくなるのでぶった切ります。そんなわけで職業としての画家というお話でした。
もうひとつは芸術家としての画家、批判者としての芸術家です。
ゴヤが見つめた社会やスペインの激動は、単なる職業画家の枠を完全に超えたものです。昔画家は画家であって思想家や哲学者ではありません。ゴヤは貴族の肖像画を描きながらも、子を食らうサトゥルヌスを描いたり、醜く歪んだ人々を描いたり、社会風刺の銅版画を作ったりしていました。どうやってこの二つを両立させていたのか、あるいは映画の中でも暗に描いたように、両立ではなく実は混在させていたのか、絵画作品は絵画なのかそれとも思想なのか、いろいろと現代というか自分に置き換えて深く考え込むテーゼが含まれます。
絵画は技術の成果ですが、もちろん思想的なものや内面は必ず出てきます。私個人は近代以降の、内面とか思想とかのアーティスト個人に帰結しすぎる絵画作品の鑑賞法には少々批判的なのですが、自ずと出てくるものを否定するわけでもありません。
例えば、ゴヤは貴族の絵を嫌々描いていたわけではないという決めつけがひとつあります。単に技術といえど絵を描くには動機が必要です。ちょっとそこら辺が他の製造業と一緒にできないところでもありますが、本当に厭なもの、絵を描く動機がまったくないものを描くことなど誰に出来ましょうか。
その動機が金銭であってもいっこうに構わないので、ゴヤが「手を描いたら割増料金」という時、もしかしたら本当は描きたくもないけど金銭を動機に描いているのかなと思わないでもないというシーンは重要でした。
ゴヤが宮廷画家としていい立場にいつつも、批判者として芸術作品を描き、そのどちらもが各方面に支持され成り立っていたのだとすれば、それこそが私が追い求めている状況であります。
今は少しマシですが、絵の仕事を始めた当初、大企業の孫請け曾孫受けで仕事を受けるわけですが、元請けの中間会社の担当者には批判者としての存在を絶対に親会社に見せないよう釘を刺されたものです。つまり、おかしなアングラバンドで荒くれていたり犯罪者すれすれだったり陰茎がさぼてんになったキャラクターの絵を描くような、当時はそっちのほうがメインだったりしたそっち系に関しては「ないもの」として完全に切り替えて二重生活をしていたわけです。今は昔ほど隠したり二重生活をしているわけではないですが、それでも普通に両方を同時に出すということはほとんどありません。
「宮廷画家ゴヤが見た」の冒頭、神父ロレンスはじめ教会の面々がゴヤに対してあれこれ詮索するシーンがありますが、そんなわけであのシーンはいきなりぐっと来たものです。

ちょっと話がずれまくって、また止まらなくなりそうなので無理矢理止めて映画の感想を続けます。

そんなわけで冒頭からハビエル・バルデムの怪演がたっぷり堪能できます。この人はほんとにすごい役者ですね。強烈です。最初から最後まで、ハビエル・バルデムの演技はすべて絶賛です。七変化も楽しめますし、迫力たっぷりです。観る価値あります。

スペイン宗教裁判といえば泣く子も黙る残虐非道の恐怖の代名詞です。ですがモンティパイソン世代にとっては具合の悪いことにギャグの代名詞でもあります。ほんとにおかしなものが脳に焼き付いたもので、せっかくの恐ろしいシーンを見ながらモンティパイソンを思い出すという失礼極まりない見方をしてしまった箇所があると、ここで懺悔しておきます。

ナタリー・ポートマンも頑張りました。特に商人の娘イネスが宗教裁判に連れ去られてしばらく、見るに堪えない辛いシーンを見事に演じきります。もうね、可哀想で不憫で、たまりません。おじさん、もうたまりません。

後半は違う役で登場します。正直言いますと後半、頑張ったのは痛いほど伝わりますし、じっさいよく頑張ったと思いますが、個人的には絶賛したいという感じではないです。隠しきれないというか。ちょっと無理してるなーって感じてしまいましたが悪気はありません。

ステラン・スカルスガルドのゴヤは、最初はこんな感じでいいの?ちょっとキャラ弱くない?と思いますが、役割的にベストな存在感で、後半にかけてじわりじわりとやってくる鬼気迫る感じとのバランスを考えれば完璧と言いたいです。もう最後はゴヤにしか見えません。今後ゴヤの自画像を見たら、もうステラン・スカルスガルドにしか見えなくなりそうです。

ミロス・フォアマンの演出は衰え知らずの流石の域。画家のちょっとしたシーンひとつで、例えば私の脳味噌を何日も支配できるぐらいの威力です。
猿のサインのシーン、豚料理のレストランシーン、宗教裁判、風景から何から、やっぱりいい演出です。

共同脚本のひとり、ジャン=クロード・カリエールは巨匠中の巨匠、ブニュエル「昼顔」「ブルジョワジーの密かな楽しみ」「欲望のあいまいな対象」や「ブリキの太鼓」「存在の耐えられない軽さ」などなど、これでもかという傑作の脚本を書いてきた人で、もうわけのわからない才能のお方でございますねー。

細かく紹介したいいいシーン、いい演技、いい脚本、ほんとにたくさんありました。
ただ、手放しで絶賛しているかというと、そこはどうでしょう。他の何本かの大好きな手放し絶賛映画と比較すると、個人的な好き嫌いとかツボみたいなのも関係しますんで、そこまで褒め称えることはありませんです。たとえば重箱の隅ですが、ナタリー・ポートマンの二役とか、必要だったのかと思います。きっと大人の事情です。もしイネスだけ、しかも前半だけの登場なら心に焼き付く大きな存在感を放っていたのではないかと思います。それからスペインを舞台にしているのに英語ドラマというのも仕方ないとは言え残念なところでした。もうひとつ、尺が短いです。怒濤の物語なのに2時間にも満たないというのは残念すぎます。3時間半の大作であってもよかったのでは、と。これもきっと大人の事情でしょう。
というわけで些細な残念感もありますが、でも思っていた以上にいい映画で、名作と言っても間違いありません。

スペインは近代史もすごいですが18世紀もすごいことになっています。もっと昔の帝国時代もすごいことです。スペインという国は一体何がどうなっているんでしょう。

ゴヤの映画は以前にカルロス・サウラの「ゴヤ」を観ていますが、あれとこっちは全然違う映画でして、カルロス・サウラのほうは内面重視の情緒的な作品でした。

変な話を間に挟んでしまって感想文として歪な本稿でありますが、ちょっと前の話題作「宮廷画家ゴヤは見た」でした。

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