コンプライアンス 服従の心理

Compliance
米国で10年間にわたって起きていた「身体検査いたずら電話詐欺事件」を忠実に映画化。「こんなのにだまされるなんて」と一見誰もが被害者を小馬鹿にするような感想を持つかもしれないがそれこそ罠。そして「コンプライアンス 服従の心理」は映画作品としても最高の出来映え。
コンプライアンス 服従の心理

実際の事件

実際に起きた事件の映画化です。映画を見た後にこの事件についていろいろ知って、かなり忠実に事件を再現していることを知りました。

「ストリップサーチいたずら電話詐欺事件」と名付けられたこの事件、10年間にわたって全米各州で70件以上起きており、2004年に犯人が逮捕されるまで続いたそうです。犯人逮捕後は起きておらず、ただ一人の犯行だった可能性もあるようですが事実はわかりません。逮捕された犯人も証拠不十分で有罪にならなかったそうです。

どんな事件かというと、警察を名乗ってお店に電話をかけ、店長や従業員に異常な行為をさせるというものです。被害を受けた多くが、田舎町のファストフード店だったようです。

映画「コンプライアンス」の舞台となったのはケンタッキー州のマクドナルドのケースでしょうか。ABCのテレビ番組でも詳細が報道され、たいそう話題になったケースだったようです。YouTubeにも上がっています。

実話ベースの映画としてちょっと変わったところがあるとすれば、このABCのテレビ番組の収録シーンまでも映画で再現している点です。そんなことつゆしらず、映画を見終えたときは面白い構成に関心したものですが、店長のテレビ出演までもが事実に則るものだったとは驚きました。

まるでワイドショーの再現フィルムのような映画です。そのくらい事件に忠実です。で、再現フィルムみたいというのは決して映画をおとしめている訳ではありませんで、これほど忠実なのにも関わらず、映画としての出来映えが大変優れているということを言いたいのでした。

リアリズムとスリラー演出

まずは実際の事件を知らずに映画作品として堪能しました。

ドラマ全体としてはリアリズムの技法が目立ちます。極めてナチュラルにドラマが展開します。ドキュメンタリーと見紛うような、ヨーロッパのどぎつい映画なんかでお馴染みのあのリアリティの表現ですね。

電話の主が登場してくるようになってからは若干のスリラー演出が目立ち始め、テイストを変えてきます。電話の主が実際に登場する前と後では映画のイメージもずいぶん変わりますし、脚本的にも大きな転換を迎えるところなので、この演出の変化は技術的に狙ったものであることがわかります。

事件の前半では観ているこちらもミスリードされます。演出的にミスリードされているのか、犯人にミスリードされているのか、その区別がつかないほどのリアルなミスリードです。
つまり某かの性的な目論見を犯人が持っていると思い込むのですね。ところが実際に犯人が登場してからは、その犯行の目的や動機が訳わからなくなってきます。この男の目的はいったい何なのか、何がしたいのか。まあ、それこそがこの映画のテーマでありタイトルにもなっている点なのでありますが、犯人の異常性が常人の理解を超えているので、途中ほんとにわけがわからなくなってきます。
こうしたストーリーの流れがスリラー映画としての面白さを引き立てます。

キャラクター

この映画が非常に優れている点は人物に関する造型と演出です。もちろん役者さんたちの力も含めてです。

登場人物はファストフード店の店長はじめ副店長や店員たちです。店長の恋人、外部の職人オヤジもいます。リアリズム描写の中に、極めて明確なキャラクターの分配がされていまして、伏線の張り方なんかも映画的ツボを心得ていますし、人物描写も的確です。相当にドラマの作りの演出が懲らされているんですね。本当に見事です。

例えば冒頭近くに、外部からの職人さんが登場します。店長は気さくに「今度新製品のシェイク食べに来てよ」なんて話してます。最初何でもない登場人物であると思わせるこの職人さんのキャラクター造型には喝采を送りたくなります。

職人さんという括りでは店長の婚約者も重要な人物です。建築関係に従事しているっぽいこのヴァンという男は、穏やかな顔つきの優しい男として最初登場します。

店長だってそうです。副店長も、バイトのケヴィンも、役割が明確で性格設定に一切の隙がありません。短い何でもなさそうなシーンで人物の性格を表現します。その表現の的確さに舌を巻きます。

有名なミルグラム実験を踏まえているということもあって、登場人物は精神分析的にパターン分けがされており、多かれ少なかれ誰もが誰かに当てはまったりします。

ケヴィンという若者は基本的に権威を信頼しておらず判断力もありますが実際の行動でそれを示すことがありません。一般的にはただの反抗期の若造タイプですね。ケヴィンは店内でひとり正しいのに少女を救うことができませんでした。こそこそと裏取りなんかをして、気にかけているのですがそれ以上の行動ができませんし、するつもりもありません。考えようによっては非常に厭な奴とも言えます。
で、このケヴィンや、あるいは副店長といったあたりが、観客の感情移入を促すキャラクターだろうと思われます。じつはこのパターンの人間が中間で最も多いんですよね、たぶん。

人として尊敬できるというか、憧れを持つタイプってのがあります。
あまり知性的でなく粗野なところもあれど、直感的に人としての道徳感を実践しているタイプの人です。こういう人に憧れます。この映画でいうともちろんあの方です。かっこいい!って思いますもん。

こういうタイプは場に流されることも空気に毒されることもなく己の道徳感で生きており、躊躇なく場違いな発言をしたりできます。そしてそれが大きな力になることもあります。
こういうタイプは権威に服従する心をまるで持っていないため、社会の中で優位な地位に就くことができません。
そして映画的には最高の見せ場を用意できます。

まったく自分と相容れないタイプの基本、この映画のテーマそのものずばりの「服従する人」ってのがあります。程度の差こそあれ、世間のほとんどを占めている種族です。

従う人

服従する人、あるいは単に「従う人」でもいいです。同調者、権威主義者、体制順応主義者です。Il conformista なんて言葉を思い出しますね(「暗殺の森」の従う人は政治的な意味での従う人ですが、ここで言う服従する人は似たもののもう少し広義かもしれません)。

まず第一に権威の言うことを信頼するという前提がこういう人にあります。権威はまず疑うものであって信用するなんてことはまるで意味不明の精神構造ですが現実には多くが権威を信頼します。
決して悪人ではないし、素直な場合もあると思うし、そもそも社会が成り立つのは圧倒的多数の従う人たちのおかげです。ただその社会が正気かどうかは別です。

「コンプライアンス」の中で最も服従する人なのはもちろんあの男です。
あの男はとても優しいし人の話に耳を傾けます。しかし自分の行動を律するのは常に他者であり、他者への信頼が自分のすべてです。自分の行動の責任は常に他者にあります。「責任取るから」と免罪符を与えられればどんな命令にも従うし、そのうち権威に同調しだしたりします。さらに責任回避を利用して自分の欲望を実現したりします。

この手の人間が権威に命じられるとこの映画のようになるし、政治に関わると全体主義者の体現者になりますし、独裁者的な犯罪者の元では率先して暴力を振るう人間になります。先の大戦や今の惨状で政府や広報を信頼している愚者と同じで、実際社会の構成員の多数を占めています。
価値観が変わると反省したりします。後で「なぜあんなことをやったのだ」と問われれば、泣きながら「なぜだかわかりません」と答えるような弱い人間です(アメリカン・クライム)。

またあるいはそこそこの人間的な判断力があるにも関わらず権威の前にひれ伏してしまうタイプもあります。「なんかへんだなー」と思いつつ、従ってしまう中間の人です。権威に弱く自分もちょっぴり権威であるというその中途半端さの悲哀がそこにあります。多かれ少なかれ誰しもこの性質を持っています。

いろんな程度はありますがこの手の人間を上手く飼い慣らすことが実際の権威の仕事となります。そしてそれはとても簡単です。

「コンプライアンス」という言葉には法令遵守のイメージがありますね。法令遵守、いいことじゃんと思う人もいますし、そもそも法なんて信頼していないという人もいます。

時々悪法がありますが「悪法も法」と、知恵を絞る人がいる傍ら、「いや、悪法は悪だから」とのほほんとしているやつもおります。でもそんなこと言ってると社会的に痛い目に遭ったりします。

ところで「コンプライアンス 服従の心理」の面白さを作るもうひとつの技があります。
観ている人を煽る炎上技法です。この映画実はちょっと客を煽ってます。
つまり、詐欺電話を真に受ける店長や被害者の女の子を観ながら
「そんな電話を真に受ける奴がおるかいな」
「無茶苦茶言うとるやないか。何で信じるねん」
「おまえらまとめてアホじゃー」
と観客のつっこみ心を刺激しまくるんですね。これ上手いですね。まんまと乗せられて観ている側はとても盛り上がります。

そんでもってそこに罠があります。
「こんなアホな話を信じる奴おらんわー」という、まさに「アホな話」こそ、信じるやつらが現実には大勢いるのです。

いちいち書くのも憚れますが、アホな話、満点の虚偽、すぐバレる大嘘、吐き気を催す出鱈目で埋め尽くされているのが世の中です。
「なぜこんな間抜けな嘘に国民は騙されているのか」と思う気持ちと、この映画を観て「なぜこんな電話に騙されるのか」と思う気持ちはまったく同じです。

嘘がでたらめで荒唐無稽で大きいほど、服従する人たちはそれを信じます。それは歴史が証明しているし、歴史を見ないまでも見渡したり買い物をすれば実例がごろごろあります。

この映画の騙される人々を見て「こんな嘘にだまされてあほやなあ」と思った観客のほとんどが、同じくらい馬鹿馬鹿しい嘘にだまされて生きているということに気づかされます。

もうひとつの罠があります。

この映画を観た人がどこに怒りの矛先を向けるのかということです。実際の話、電話で命じた男に対して怒りを覚えるのか、命令に忠実だった側に怒りを覚えるのかです。もしかしたらですけど、直感的に実行犯のほうにより身の丈の怒りを感じる人がいるかもしれません。
「あんな嘘電話にだまされやがって」
「嘘電話を利用して自分の欲望を満たしただけじゃないのか」
といった疑いを強く感じてしまうとすれば、危機感を自覚しなければなりません。「だまされたほうが悪い」という感情は、巨悪から目をそらし身近な攻撃対象を物色する人間にありがちな心の動きです。自分のストレスを弱者や他民族への攻撃に転化するような人間に見られる心理です。もうすでに「服従する人」に首までどっぷり浸かっているという証拠です。

映画の中で、そういう感情を促す演出が序盤からきっちり用意されています。用意周到というか綿密というか厭らしいというか凄いというか、ほんとによく出来た映画です。
監督は心理実験への興味が強かったとのことで、相当な知見を脚本に込めたということがわかります。
映画自体が心理劇の形相も帯びていますが、それよりも観客に向けた心理実験というふうにも受け取れますね。

戦慄が走ります。これは絶賛です。

被害者のティーンを演じたドリーマ・ウォーカーの個性は映画のレベルを引き上げました。快活でちょっとだけやんちゃで10代らしい無邪気さを持つ可愛らしい女の子です。その子がどんどん暗い目になっていく様は一瞬映画を忘れて「かわいそうすぎる!」と叫び出したくなるレベル。強気な性分も持っているはずなのに上司や警察にはまったく反抗できない素直さが仇になるという複雑な役回りを完璧にこなしました。
ドリーマ・ウォーカーは「グラン・トリノ」の娘さんの役をやってた人ですか。実力ありますね。
大変な目に遭う10代の役ですが、ドリーマ・ウォーカー本人はぜんぜん10代じゃありません、念のため。そういう意味でも実力派。

そしてリアルな演技で見ている私に「おばはん、ぼけっ、早よ気づけっ、あほーっ」と叫ばせた店長役のアン・ダウドの名演が光ります。
この映画、やっぱりリアリティ演出が冴えているので、役者がどうとかあまり思えてこないタイプの映画です。つまりそこまでリアリティを感じさせたのはまさに役者の力なわけですねえ。
アン・ダウドはいろんな賞の助演女優賞ノミネートされ、いくつか受賞しています。

ABCのテレビ番組とか、この事件の詳細Wikiやその他、サイドメニューにいろいろリンクを付けておきました。
スマートフォンではサイドメニューにアクセスしにくいですが、メニューから、または下にスクロールしてどうぞ。

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