汚れなき祈り

După Dealuri
孤児院で育った女性ふたり。ひとりは修道院に、もうひとりはドイツで過ごしていました。ドイツにいた彼女が修道院にやってきます。「いっしょにドイツ行こ」「あたしはここの暮らしがいいの」 「4ヶ月、3週と2日」のクリスティアン・ムンジウ監督が強烈な一発をかまします。
汚れなき祈り

孤児院で育った親友同士、ドイツにいた活発なアリーナと修道院で暮らしているヴォイキツァです。この映画の冒頭はアリーナが列車に乗ってルーマニアに戻り、ヴォイキツァと邂逅するシーンからです。

4ヶ月、3週と2日」の監督で、カンヌで脚本賞ってんで、まったく内容を知らずに観に行きましたが、まあこれがねえ、ほんとにねえ、この映画見応えたっぷりずっしりもっちりたまりません。
どんな映画か知らないものだから、序盤からの小さな展開に釘付けです。
「これ何の映画?」
「えっ。女の子ふたりの旅の映画?
「えっ。もしや、女性のどろどろの愛の映画?」
「えっ。もしや、閉鎖環境と政治を結びつけるあの手の?」
「えっ。もしや、あ」
「えっ。もしや、お」
「ぐはぁ」
映画の間中、めまぐるしく脳味噌が動き続けます。
最後のほうにいたっては沸騰します。頭がピー言いました。

駅で邂逅したふたりはヴォイキツァの住む修道院に出向き、身を寄せます。
最初は女の子っぽいきゃっきゃっした雰囲気ですが、アリーナが何をしに来たかというと、ヴォイキツァを迎えに来たようなんですね。いっしょにドイツに行こうという話みたいです。アリーナは親友を修道院から連れ出して一緒に都会で暮らしたいのですね。
ヴォイキツァもドイツに行く気ではいるのですが、アリーナの期待とは逆に、一緒にちょっとだけ行って帰ってくるつもりです。ヴォイキツァは信仰深く修道院を離れるつもりはありません。

人里離れた修道院でのお話です。
アリーナは仕事も失っており、ヴォイキツァと一緒でないと厭厭と、身を寄せている修道院から出て行く気がありません。
ならばアリーナも信仰に目覚めて一緒に修道院で暮らせばどうでしょう、ってんでそういう期待を込めて共同生活が始まったりします。

おしとやかでおとなしいヴォイキツァと対照的に都会的で自由人なアリーナです。修道院の暮らしが上手く行くはずもありません。
アリーナは時として激しい気性を押さえきれなくなったり問題行動を起こし始めます。

ルーマニア正教の修道院にいる他の女性たちと司祭、愛と信仰に揺れる女性ふたり、佇む教会の建物。雪景色。何もかもが素晴らしい。どこをどう切り取っても見事。
「4ヶ月、3週と2日」と本作の二本しか知りませんがクリスティアン・ムンジウ監督、すごいです。

さてこの映画の感想文なわけですが、ネタバレしたくないのでかなりむずむずしています。
この映画の内容は私がいつもいつも吼えまくっているある社会的なアレに関わっているので言いたいことが山盛りあるんだけどなー。と。
見どころをいくつか挙げてお茶を濁すしかないのでしょうか。

と、書き終えてここに戻ってきましたがお茶を濁したつもりが大雑把にはどんな映画か予想できそうな記述をやっぱりしてしまいました。

ネタバレを避けたい人は、映画をご覧になってからもう一度訪れて読んでみてください。

După dealuri

修道院と建物

まずちょっと離れたところにある修道院です。教会があって寝泊まりするところがあって庭があっていろいろあります。このロケーション、たっぷり見ることになりますが、とてもいいんですよ。
絵的にもいいし、閉鎖環境にある空間、独立した世界とも言える環境から切り離された場所としての存在感が凄まじくあります。

この修道院と周りの建物、これらはブカレストから100キロ離れた丘の上に作られたセットですって。雪で大変だったそうです。

エピソードの中で私にとって強烈なものがひとつあります。
この修道院、寂れていて正式に認められていないところもあるようでして、その理由として壁画がないからだというのです。
で、かつて壁画を入れようと絵描きを雇って制作させたのですが、払うお金がなくて未完成のまま放置されたという、途中段階の壁画です。

修道院の女性たちがこの絵を眺めながら会話をするシーンがあります。カメラは彼女らを収め、カメラの後ろにあるであろう未完成壁画を見上げているんですが、肝心の壁画が映りません。
職業柄、この教会の未完成壁画をものすごく見たいのです。見たくて見たくてたまらないんです。壁画ネタのシーンは何度か出てきますが、絵は絶対に映りません。悶絶死します。
これは個人的ですがかつて見た悪夢なんです。その悪夢についてはいずれ漫画にでも。数年後の追記ですが、これについてちょっと書いたのでリンクしておきます->Dizzone the movie

壁画を映さないという作戦は、別のあるシーンと対になっている表現技法です。
即ち、司祭が大事にしていて「絶対に入ってはいけない部屋」にある「聖画」です。それが本当にあるのかどうか誰も確認できないイコンとしての聖画、これがですね、あるシーンでですね、アリーナがですね、ずかずかと
おっとこれ以上は秘密。

そういう感じで、この修道院の敷地と建物はとてもとても重要なセットです。
この場所と空間で物語は進行し、いつの間にか我々は完全に取り込まれ嵌められます。

リアリティ演出

演出は「4ヶ月、3週と2日」のあのリアリティ演出と同等で、心が締め付けられ心臓が止まります。
リアリティ系の監督と言えばダルデンヌ兄弟が代表格でしょうか。こう言っては失礼ですが完全にそっち系のお仲間です。観ている間も、その演出技法がダルデンヌ兄弟の作品と共通することを強く感じます。
ダルデンヌ作品は労働や貧困を描きますがルーマニアのクリスティアン・ムンジウは独裁政権の体験者としてさらに強烈なものを描きます。ダルデンヌ兄弟みたいな希望の光などというそんなものはありません。突き放した強烈さにおいてはもうひとりのリアリティ系代表格ミヒャエル・ハネケの名を出していいかもしれません。
大監督の名を挙げてしまいましたがこれはクリスティアン・ムンジウ監督を貶めてるんではなくて寧ろ逆にこれら大監督に一歩も引けを取らず同列であると言い切っているのですよ。「4ヶ月」もすごかったですしね。

美しい映像

リアリティと言ってもビデオカメラで覗いた世界みたいなそういうリアリティではなくて映像的にはとても美しい構図と絵面で出来ています。
心を奪われる景色に冒頭から最後までやられっぱなしになります。
これほど美しい絵なのにリアリティを感じるというのは実はおかしな話で、本当はリアリティを感じるように作られているということなわけですね。ここらへん技術的な映画作りの話で、素直に映画を作る人撮影する人の技術力の高さに呻り感心するばかりです。
なにしろ全編、素晴らしい絵画的構図と美しい画面に目を奪われるでしょう。

女優

主演の女性ふたりは完璧すぎて悶絶です。このふたりはふたりともがカンヌで受賞しました。当然のように思います。

ヴォイキツァを演じたコスミナ・ストラタンは本作が長編映画デビュー作。
この女優の力と彼女を選んだキャスティングがいかに神懸かったものであったか、それを言いたいんですが語彙がありません。
とにかくこの女性の何もかもが「汚れなき祈り」の表現の全てを一段上に上げます。
微妙な発声、眼差し、動き、完璧です。完全にこの子にやられます。なにをやられるって、つまりあれですよ、この子に感情移入することによって、我々の心は犯罪者になるのです。
強烈な体験です。

もうひとりアリーナを演じたクリスティナ・フルトゥルのキャラクターも配役の勝利です。この人をキャスティングしたこともまた神懸かりです。
もともとヴォイキツァと比較してあまり美女でもないし、強気な顔をしています。あまり人から好かれるようなタイプの役ではなく、発作も起こすしわがままも言います。でも心の中は愛に満ちてもいます。親友を愛しているのです。何という複雑な設定。そういう演技をがんがんこなします。

彼女を見ている我々は監督の罠に完全に嵌められます。つまり、頑固でわがままなアリーナに「ちょっとおとなしくすればいいのに」とか「改心すれば可愛いヴォイキツァと仲良く暮らせるのに」とか、ほんのちょっぴり思ってしまうことがあるんですよ。

ちょっぴりでもこう感じたことを、我々は大いに恥じ入ることになります。

細部の積み重ね

修道院での細部の細部まで練り上げられたリアリティ描写が観客を翻弄します。

隔絶された集団の動向と言えばアレです。
例えば煙草を毛嫌いするというヘンテコな価値観があったとして、その発生から拡散から浸透、その後にやってくる差別と暴力が生成される過程には閉鎖環境における日常の連続というものが深く影響を与えます。

もう一つ例えば原発連鎖爆発の大事故が現在進行中であるにもかかわらず閉鎖環境での安泰を求めて被害から逃避する心理状態が、危険を訴える人間へのヒステリックな攻撃に転化されはじめるのは狭い世界に埋没して知性を放棄する典型的な事象です。
つまりこの閉鎖環境の日常というのは誰もが陥る危険を持っている罠なのであり、これを虚構が解き明かそうとすればその表現技法は細部の綿密な描写の積み重ね以外にないという、そういうことです。

「汚れなき祈り」ではじっくりと修道院の日常を描きます。親友同士の会話も描きます。食事を描き、祈る様を描きます。
これらをじーっと見ている観客は、無自覚なまま、実は教会内部の価値観に影響を受け始めます。
これこそがクリスティアン・ムンジウ監督の狙いであり罠です。多分。

狂気は社会が作り出したフィクション

精神病の定義は時代と社会が決定します。精神病患者は時代と社会が産み落とした大便です。フロムは「正気の社会」の中でこのことを解明しています。
アリーナが精神を病んでいく時、修道院のみんなはとても心配します。映画を観ているお客さんも心配します。私も心配しました。
最後まで見ると誰もが思います。狂っていたのは私のほうだった。

この作品、罠の中に周到に準備したコーナーを設けています。
例えば病院のお医者さんのシーンとかです。アリーナのバッグをひっくり返して電気製品が出てくるところなどです。
こうしたシーンに登場する「普通」のものたち、これら普通のものたちの描写に触れた時、一瞬ドキッとしませんでしたか?
ちょっとドギマギしませんでしたか?
映画の途中途中でこうしたシーンを注意深く配置していまして、ラストへと繋げます。

この作品を観て少なからず衝撃を受ける善良なるお客さんのみなさんは、この心の動きについて今一度じっくり思い返し、自身を取り巻く社会の広さあるいは狭さについて思いを巡らすという、そういうことを、・・・余計なお世話ですね、はい。

共同プロデューサーのクレジットにジャン=ピエールとリュックのダルデンヌ兄弟の名があります。書く欄がないので「製作」とのところに名を入れましたが「共同プロデューサー」です。ダルデンヌみたい、などと思ってしまいましたが思って当然でした。

第65回カンヌ国際映画祭 女優賞2名、脚本賞受賞

ちょっと記事書くのが遅れて上映終わってしまいました

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