山椒大夫

山椒大夫
1954年、溝口健二監督の「山椒大夫」です。森鴎外の小説を脚色して映画化、でも元はといえば説話「さんせう太夫」つまりお子さんにも馴染みの「安寿と厨子王」です。映像美の極致と言っていいでしょう。
山椒大夫

いろんな意味で憧れを持ちつつ、一部シーンに見覚えがあるので遙か昔にちらりほらりとは見ていたんでしょうが、まともに「山椒大夫」を鑑賞するのが生まれ落ちて半世紀近く、初めてのことであるということを別段恥じていません。むしろこの映画の力を存分に感じとることができて幸いだったとも思えます。

子供の頃「あんじゅとずしおう」という絵本があって、大雑把な話は馴染み深いです。今のお子様はたぶん「あんじゅとずしおう」などという絵本は読んでいないと思いますが、昔は大抵読んでいたのである世代以前にとってはお馴染みです。我が家の「あんじゅとずしおう」は安寿に髭が描き足されていたり厨子王の足に槍が刺さって血みどろだったりタイトルが「あんじゅとすしくおう」に変えられたりしていましたがそれもご愛敬です。筆者は年端もいかぬ子供時代にスプラッター症候群に掛かって、やたら刃物が刺さっていたり首が落ちたりする絵ばかり描いていて、映画に出てくる病んだ子供そのものでしたが特に殺人者になることもなく無事に半世紀を生き抜くことができており、世の親御さんもお子さんが少々ヤバいくらいでビビらなくてもよいとご助言差し上げておきます。

「山椒大夫」が「安寿と厨子王」であるとまったく知らぬ頃からこの映画に妙な憧れを持っていたのは、それこそ恥ずかしながら逆輸入系舶来コンプレックスのなせる青い青春時代のサブカル病ゆえでした。つまりゴダールが引用したとか、ビクトル・エリセに影響与えたとか、フランソワ・トリュフォー絶賛とかベルナルド・ベルトリッチべた褒めとか、そういう話を聞いたからです。
特にビクトル・エリセです。「溝口健二の『山椒大夫』を観て衝撃を受け、映画の道に進む決意をしたのだ」と明確に語っておりますよ。どうしましょ。これで興味を持てないなら生きる価値ありません。
そんなわけで長い間ただ憧れだった「山椒大夫」をついに観ました。これ以上引っ張ってたら観る前に死んでしまうかもしれないと思ったからです。

「山椒大夫」について何か感想を書くにあたって、いろいろあれこれ盛り沢山にありますが敢えて二つ絞り込むとすれば、その1、まずなんと言っても映画の映像美です。これはマジ凄いです。究極です。そしてその2は説話のベースとなる思想についてです。そして映画本編の目的から少し外れて民族的個人的な感傷ノスタルジーについてです。あれ?三つになった。

山椒大夫 scene

映像美

古今東西いろんな映画が映像美です。絵画的映像の美しさ、映画的映像の美しさ、古典的美しさ、斬新な美しさ、いろいろあります。映画とはまず映像であると言って憚らないほどに映像美ってのは醍醐味のひとつですね。で、この「山椒大夫」の映像美はそういういろいろな美しさのどれもにあてはまります。全部あります。そしてどれもが素晴らしくて、もうほんと映像をただ見ているだけでくらくらします。ほんとです。嘘ついてもしょうがないですけど。

構図や絵面としての美術品のような美しさ、景色や情景を捉えた生きた環境映像の美しさ、動く映像ならではの人工的な構成の美しさ、演技と共にある映画的な美しさ、そしてこの美しさには1954年の作品としての斬新さもきっとあったに違いありません。映像美に関しては想像していた通りで、尚且つ想像以上の価値がありました。もう目と脳に焼き付きます。
撮影も大変に凝っていたそうですね。ただふんわり綺麗な映像撮ったんではなくて、そりゃもういろんな技法も使いまくりで手間かけて撮ったということです。並みじゃありません。

テーマ

もともとは「さんせう太夫」という説話であったそうで、これを森鴎外が小説にしました。さらにそれを映画にしました。どこまでが説話で、どこらあたりが森鴎外で、どのへんが映画なのか、それはよくわかりません。映画が作られた時代というものもひとつでしょう。この映画に出てくる父親の言葉がストーリーを下支えしています。
「慈悲の心」「人に情け」「等しくこの世に」
まあ何ともちょっと前までは当たり前すぎて「今更何を」と言われるような基本的な教えですが、今の糞時代にはこれらの言葉の重みがずっしりのし掛かり押しつぶされて内臓飛び出るレベルの重要かつ心に響く教えです。こういう考え方はネットの一部や内閣に蔓延る平和ボケの戦差低狂人(戦争と差別が大好きな低脳のきちがい)どもによると日本を奪った戦後レジームの左翼の言葉だそうですが、その手の変なやつ以外にとってはとても基本的で大事な考え方です。ストーリーの根っこにこの父親の教えがどーんと貫かれており、だからこその悲哀や辛辣さをともなうのでありますね。
映画ではさらに資本家と奴隷労働の問題や労働者の階級闘争的なものも含ませています。喝采なんですけど、これも今のファシズム時代には「気に入らないぞ」という変な服従主義者たちがいるかもしれませんね。

ノスタルジー

さてこの60年前に作られた「山椒大夫」を今観るとき、そこには映画作品として別の価値がわらわらと追加で出てきたりします。本来の制作意図を越えた別の価値が時代のせいで勝手にくっついてくるという話です。
古い映画の中にはこの映画のようにマジ普通に今時として観ても十分過ぎる面白さを伴っているような名作がありますが、さらに加えて映画の作り全体、あるいはちょっとしたロケ地の情景にたまらないノスタルジーがくっついてくるという事実があります。だって古い映画だから。映像美としての景色の中に、懐かしい景色が紛れ込みなだれ込むのを防ぐことは出来ません。あの海辺、あの小川、あの竹、あの離れ小島、昔こんな景色が確かにあった。こういう景色の中に自分は確かにいた。
これ意外と格別で、格別どころか、ダメージ食らいます。特にある程度年食ってる人間にはノスタルジーという病はヤバいのです。
ノスタルジーという言葉は日本語で書くと何かちょっといい感じみたいなニュアンスがありますが、もともとはあまり良い意味の言葉ではありません。ちょっと病気です。絶望というのは死に至る病ですが、ノスタルジーという病もある意味死に至る病に直結します。
ノスタルジーに囚われると未来への歩みを止め、脳の奥底にしまい込んで忘却した筈の余計な情報が時を超えて最前面のRAMを占有し社会生活をまともに営むことが出来なくなります。
古い映画にはノスタルジーを刺激する作用がありますので、あまり頻繁に観るものではないなと予防医学的に本気でそう思います。

ストーリー

やっぱりちょっとお話についてますけど、この映画、ストーリーの運びひとつとってもマジもんの面白さで、構成は凝ってるわ予想外の展開に「ぎゃっ」と叫ぶわ移ろいでゆく人間の姿に感情を掻き立てられるわと、存分に面白いんですね。長い時間の中で、登場人物があんななってこんななって、みたいなうねりまくる展開です。分かり易い展開には万人がのめり込めるでしょう。退屈な(と言われそうな)文芸作品とは全然ことなり、あらゆる意味で普通に劇映画として楽しめるんですね。
「昔の映画なのに面白い」なんて言い方をする人が時々いますが、そうではなくて昔の映画だから面白いのだと思っています。映画制作に力がみなぎっており、文化も娯楽も映画が中心で、このままでは日本は世界の映画立国になってしまうわー、というそういう時代の大がかりな映画なんて、今の時代もう作ることは出来ません。逆立ちしてもどれほど金積んでも、映画スタジオ全盛時代の映画を今作ることはもう出来ないのですね。

山椒大夫 scene

50年代もそれより昔に負けず劣らず映画はたくさん作られたと思います。それこそ、映画スタジオでは誰が何撮ってんのかわからないほどにスケジュールぎっしりで、そういう中で評価の高い映画が今でも残り続け、DVDになったりしています。きっと今の時代に残ってないけど良い映画というのもあったことでしょう。
今の時代、映画を作る人ってのはこんな昔の映画とも競ってるわけで、そりゃあ大変なことですね。
ただ、映画っていうのは良い映画なら人は何本でも観ます。数多の映画の中から一つだけ選んであとはお仕舞いというわけじゃありませんから、それが救いかもしれません。妙な競争社会ではないのであると、そういう文化の証として映画というものが継続していけばいいのにな、と消極的な希望を抱いて今日はこのへんで。

ヴェネツィア国際映画祭銀獅子賞

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