悪童日記

A nagy füzet
第二次大戦末期、クセのある祖母の家に預けられた双子の兄弟のお話。アゴタ・クリストフ「悪童日記」の映画化。
悪童日記

アゴタ・クリストフは2011年に亡くなっていますが、ヤーノシュ・サース監督が映画化することは決定していたそうです。

出来の良い予告編を見て「これは観に行かねば」と必死こいて観に行った「悪童日記」、あまりにも期待過剰だったため割と冷静に観てしまいました。

期待に応えてくれたのは双子の主人公、おばあちゃん役のラースロー・ギーマント、それに撮影のクリスティアン・ベルガーでした。細かいところでは靴屋とか。いいショットやいいシーン、はっとするような画面にも出くわします。
原作に比較的忠実な脚本を書いたのはヤーノシュ・サース監督とアンドラーシュ・セケールの連名になっています。

原作に忠実であろうとするほど、映画的魅力が薄れるとうジレンマを少々感じました。尺に収めようとするとどうしても駆け足になってしまうし、淡々とした羅列感をじっとり描くには時間が足りないということになります。難しいところだと思います。

書物と映画のリズム

書物と映画は当たり前ですが全然違うものです。書物にはページというものがありページ内の文字数も大体決まってます。ゆえにページをめくる速度というのはある程度一定のリズミカルなものとなります。もちろん文章内では物語の時間が増幅されたり省略されたり緩急はありますし、読者脳内の印象としての時間感覚も通常クロノス的時間進行とは大きく異なります。ですがページをめくり読み進めるという行為そのもののリズム感というのは、読書体験の心地良さをもたらすベースとなります。というか、なっていると思っています。

映画でもページめくりと同様、映画進行という絶対的な時間の進行があります。ですがその時間中での各シーンにおける時間配分は緩急を伴います。これがページをめくる一定のリズムと映画進行のリズムとの決定的な違いですね。観る者の時間感覚と合っていれば心地よく感じます。合わない場合はもぞもぞします。
この時間配分が映画編集の決め手となります。どういうわけかプロフェッショナルは多数の人間のリズム感覚による時間の捉え方を把握していて、自在に操りますね。ほんの僅かにずらすことによって特別な感情を掻き立てたりもします。

原作に忠実

「悪童日記」が原作に忠実であると褒めるとき、この映画の持つリズム感が映画的なそれよりも読書におけるページめくりの感覚に近いからであると私は感じています。次々にページをめくって読み進めるようなリズムで映画が進行し、印象の強弱は観る者の脳内で補完します。まさに読書するような映画の見方です。これが原作ファンにはたいそう心地よく、ストーリーだけじゃない部分での原作の忠実さという認識に繋がり、映画化によって原作が崩されたと思わない好意的な受け取り方をする理由の一つだと、何となく、いえわりと確信を持ってそう思っています。
原作の技法と異なるストーリーテリングなのに「原作に忠実」と思わせる理由のひとつでもあるはずです。

そして、原作に忠実であるからこそ映画的に今ひとつと感じてしまっていることの原因もこのリズム感に由来します。読書のページめくりに近い映画進行だからこそ尺が足りないと感じるわけですし、そのリズム感に徹しているとも確信し難いからです。さらに言うと、このリズム感を作為的に作り出しているのでない、つまり、作った側は普通の映画リズムのつもりである可能性もあります。とするなら、その編集タイミングや時間配分や緩急バランスが個人的にちょっと合わなかったなと思わないでおれません。

悶々としていました

いいシーンもあるし気に入ってるシークエンスもあるし祖母のシーンや景色やいろんなところでとても良いし気に入らないところなど全然ない、むしろ間違いなく好物系なのにも関わらず、映画を見終えてからも手放しひゃっほーできないのは何故かと悶々とした気持ちが収まらず、劇場を出てからも翌日翌週翌月翌年になってもずっと腑に落ちない状態が続きました。

悶々の原因の一つはもちろん期待過剰であったせいでもあります。何かとてつもないすんごい大傑作を無意識に期待してしまっていたのだと思います。これはいけません、過去の歴史的名作や脳内傑作映画と比較して物足りないというのはもっとも卑しい感想です。これはいけません。
でもそれだけじゃないのよなあ、何なんだろう何なのだろうと考えていて、やっとのことで読書のリズム感に思い当たりました。

煎じ詰めれば「良い映画だけど、リズム感が自分にはちょい合わなんだ」というだけの実につまらない感想に落ち着きそうですが、自分の中では読書リズムと映画リズムの問題に思いを巡らせるという収穫がありました。

「悪童日記」的なる系統

ということで気を取り直し、ストーリーに関して何か書きます。
何も知らずに物語に触れた人はやっぱり母親が迎えに来たあたり以降の展開にお口あんぐりお腹きりきり心臓ばくばくの衝撃に見舞われると思うんですが、このちびっ子残酷物語には「悪童日記」以来、系統があったりします。以前にもあったのかもしれませんので言い直すと「悪童日記」的なる系統があったりします。
それはつまり社会の歪さが子供に影響を与え、妙な意味で強く逞しく育ってしまうという、そういう流れの作品です。

ちびっ子映画は大抵社会の映し鏡です。ものすごく悪く書けば、社会の狂気をより強調するために子供をダシにして悲惨さや哀れさを表現する作品群ですね。なんという酷い書き方。で、子供の純真さがきらびやかであるほど対比して描く社会のエグさがあぶり出されます。

一方、少数ながら逆のアプローチによるあぶり出しがあります。純真無垢だと思い込んでるのはお目出度い大人だけで、子供は悪い社会のダイレクトな影響を受けワイルドに育ち、強さと恐ろしさに満ちてしまうという系統です。こちらは純真な大人の心を引き裂きますね。

映画でもいくつかありましした。・・・と、実例を挙げようとしてちょっと躊躇していますが、比較的新しい映画に見受けられます。でも古い映画を知らないので断言などできません。
Movie Booのちびっ子映画のリストを見てみると、現時点で「悪童日記」的たる系統、即ち純真な大人の心を引き裂く系のは2点ほどありました。
ひとつは軍事政権下のアルゼンチン、ひとつは内戦終了直後のスペインが舞台の作品ですね。これら映画の脚本を作るにあたって「悪童日記」の影響があるとかないとか、それは全くわかりません。でもないと断言することはできないんではないかとちょっと思ってます。

予告編

ここであえてよくできた予告編を貼っておきますが。

各シーン、各ショット、独白、どれを見ても素晴らしい映画であると確信できるかと思います。この予告編の出来が良すぎて私は1年以上もの間、悶々とすることになってしまいました。映画を見た直後は今よりもっと酷くてですね「なんでこんなに良い映画なのに全然ピンと来ないんだ。予告編のほうがずっと出来がいいぞ」と泣いていました(あほですね)
ひとつ犯人はわかっています。犯人は予告編で用いられた音楽です。交響曲第7番第二楽章は非常にずるいです。本編でこの曲は使用されていません。

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