トールマン

The Tall Man
「マーターズ」のパスカル・ロジェ2012年の「トールマン」です。トールマンって何マン?トールマンは子をさらう怖い人ですよ。
トールマン

一番驚いたのはローズ・イン・タイドランドのローズちゃんことジョデル・フェルランドがまたひとまわり大きくなっていたことです。一瞬誰だかわかりませんでした。子供の成長ってのは本当に早いですね。「ケース39」からまだ3年ほどしか経っていないですのにね。
「トールマン」ではぎりぎりおっきな子供という微妙な年齢の役です。この微妙な年齢がストーリー的にも重要でした。

さてパスカル・ロジェ「マーターズ」以来の2012年最新映画です。日本では2012年晩秋に公開。シアターN渋谷の最後の公開作品となりました。シアターN渋谷の閉館、本当に残念でしたね。遠いから行ったことないですけど。
その後は2013年のついこないだまで各地で公開していました。公開してくれなかったところも多く、もたもたしているうちにDVD出ました。

小さな貧困の街のお話です。子供が行方不明になる事件が多発したため、神隠しの伝説のように「トールマンにさらわれた」と噂になっています。そんなお話です。

パスカル・ロジェの監督作品は三作しか日本で紹介されていませんが、三作に共通する特徴は女性が主人公であることの他に、どんでん返し的な急展開を果たすところです。しかもその急展開、わりとぶっ飛んでいたりします。
House of Voices(邦題Mother)」のラスト近く、「マーターズ」の後半、ともに「ええーっ」ってなる急展開です。「トールマン」でも途中そういう展開になります。ただし「トールマン」の急展開はこれまでのパターンとちょっとだけ違います。どう違うかは秘密にしておきますけど。

ストーリーテリングの面白さやびっくり展開を入れてくるわけで、こうした急展開を盛り込んでくるのはいいですね。お客を驚かせてやろう、楽しませてやろうっていう外向きの気概を感じることができるからです。

パスカル・ロジェは若い頃の映画体験の中で、レンタルビデオの恩恵を受けた世代であることを語っています。71年生まれですから、レンタルビデオで大興奮した最後のほうの世代ですね。
その頃、レンタルビデオのパッケージにはアートワークも付いておらず、タイトルと簡単な説明しか書かれていなくて、実際に観るまでどこの国のどんな映画であるかさえわからなかったそうです。
そしてそのために、とても面白く観ることができたそうです。
この体験がストーリー構築の根っこであって、事前情報があふれかえっている現代だからこそあえて意外な展開やおどろきのどんでん返しを入れたくなるんだそうです。擬似的に「何も知らずに観て楽しんだ」のと同等の新鮮さを演出してるんですね。

これわかります。これすごくわかります。

映画の楽しみは、その映画がどんな映画かまったく知らずに観ることこそが究極です。主人公が誰とか、そういうのすらわからないまま、全てのシーンを新鮮に、すべての展開をわくわくして観ます。私も未だにこういう見方をするタイプです。こうした見方で映画を観ると、特に激しい展開やどんでん返しなんかなくても、十分にそれと同等の驚きをたっぷり感じることができますよね。

今の時代、油断していると情報が入りまくりますから、相当意図的に気合いを入れて情報遮断しなければなりません。代表的なポスターぐらいは目にしますが、まあなんせ何も知らずに観ることは素晴らしい体験です。

情報なく映画を観る喜びをシミュレーションするようなパスカル・ロジェの急展開、いいじゃありませんか。ただ驚かせたいだけ、結構じゃありませんか。そういうサービス精神を、自分の作品であるからこそ入れこむというその姿勢を支持します。

というわけで、だから映画の内容については触れたくありませんが、「トールマン」のテーマに関してはムズムズの虫がもたげ始めていますので書かずにおれません。この後は「トールマン」のテーマや内容に踏み込みますから、観るつもりでまだ観てない人、情報を避けたい人は読まずに立ち去ることをおすすめします。
パスカル・ロジェの「何も知らずに物語を楽しんでほしい」という気持ちを尊重するなら是非そうしてください。

ではさようなら。

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以下、ネタバレしています。

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はい。というわけで内容は、貧困の街の子供の神隠しです。そしてテーマはモラルの問いかけです。
社会問題に関して、告発や啓蒙ではなくてそれに介在することに対するモラルを問う映画は、実は案外めずらしかったりします。一見、よくあるタイプの問いかけ映画に見えますが、これまでほとんど見かけないタイプです。
似た映画があるのをご存じの方もいるでしょう。でも似ているようで微妙に違います。「トールマン」は直接的ではない根本的な部分での問いかけを行っています。

一見モラルを問います。こどもにとってどちらがより良いのか?です。そのために貧困社会を描きますが、確かに問いかけるための貧困社会の描写は弱いです。他の同じ問題を扱った真面目な映画にはとてもかないません。でもそれはいいです。告発系映画ではないですから。でも観る側に貧困問題についての広範な知識がないと上手に伝わらないかもしれません。

社会のふるいにかけられた貧困社会の未来を救う手立てとして甚だ稚拙な解決方法を映画では示します。つまり問題の解決を諦め、貧困社会を肯定した上での解決です。これ自体、問いかけではあるものの問題を助長するものだと言っていいでしょう。この問いかけに対して善を感じる人はあまりいないのではないでしょうか。母親が洗濯物を干しているカットが最後に映りまして、作り手もちゃんとわかっています。

でももうちょっと考えると、あまりにも絶望的故せめてもの藁をもすがるようなそういう解決であるとも取れます。本当に簡単にこの解決方法を否定してよいのかという思考実験も十分やってみる価値があります。
もしこの方法を続ければ未来の芽は摘まれ街は滅びます。しかし現状すでに滅びているとも取れます。滅びゆく世界でルーティンに溺れ真の滅びを待つのか、せめてこどもだけでもと、問題の根本解決には遠くても何とか生かしていく手立てを模索するのか、そういう選択をすでに迫られているわけです。
高濃度汚染地区で何もないふりをしながら絶望を待つのか、せめて子供だけでも疎開させようとするのか、そんな選択とも似ています。

でも真に問いかけているのはそのことだけではないんですよね。

冒頭の出産シーンが重要です。
生まれた赤ん坊は息をしていません。看護師は一所懸命蘇生の措置を行います。その甲斐あって赤ん坊が息を吹き返しほっとするシーンです。
パスカル・ロジェが「トールマン」で問いかけたことはこのことです。
つまり、「赤ん坊を救うため」に「蘇生を施した」ことと、「貧困な子供を救うため」に「連れ去った」ことを、意味的に同列に示すことによって、モラルと慈善の幅、そして線引きを提示します。
子供を救うために第三者の大人が手を下すということに対する判断を問うています。
どこまでならモラルとして許されるんですか?蘇生、治療、養子、いろいろな幅でやってあげられることがあります。極端な例を示して「どちらがより良いのか」と同時に、「どこまでなら手を下していいのか」という問いかけを行っていて、さらにその件に関してジャッジすること自体を問うているということですね。「どこまでなら手を下していいのかを判断する」ことそのものを問う、と、そんな感じです。

なかなか鋭いところを付いていると思います。

このような思考実験は日常のあらゆるところに見ることができます。モラルに応じた判断というものを日常的に人は行っていますが、少し掘り下げると迂闊に言い切れないことがあると発見できるでしょう。自分のモラルに絶対の自信を持つことなどできないとわかるまで、幅と線引きとその判断についてじっくり物事について考えてみるのも大事なことではないでしょうか。

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