アンダーグラウンド

Подземље
エミール・クストリッツァ監督1995年作品。怒濤のユーゴ近代史を総括するミクロでマクロで悲惨で可笑しく、戦慄で驚愕でコミカルで歌と踊り、リアリズムを超えたリアリティとファンタジーを超えたファンタジー、超が付く現実、人間と動物と大人と子供と社会の喧噪と狂乱、映画史に刻まれる20世紀末の一大傑作。
アンダーグラウンド

「アンダーグラウンド」再上映

公開から15年、半ば伝説と化していた「アンダーグラウンド」が2011年から2012年にかけて再上映の運びとなり、その後、春にはDVDとブルレイでリマスター再発売されて、この機会に初めて観たという私と同じような人もたくさんいるのではないでしょうか。

2011年9月の再上映は4週間の上映期間予定を9週間に拡大するまでのロングランとなりました。さらにふくれあがる観客の要望に応え、年末に4週間のアンコール上映まで実現する始末。映画館でこれを堪能できたひと、おめでとうございます。大変素晴らしい体験をされました。

ユーゴの50年間と三つ巴の愛

「アンダーグラウンド」はエミール・クストリッツァが祖国ユーゴスラビアへの強い気持ちを込めて作り上げた大作です。第二次大戦後期の1941年からユーゴスラビア紛争まっただ中で公開当時直近の92年あたりまでのベオグラードを舞台に、激動の歴史に翻弄されるあるいは翻弄する人々を描きます。

野心に燃え人を欺く悪魔のような男マルコ、強引で戦闘的な男クロ、そして二人に愛される蝶のような女優ナタリア。この三人の周辺、動物を愛する吃りの飼育男イヴァン、クロの息子ヨヴァン、ナタリアに惚れるドイツ軍人フランツ、女優の姉に愛される車椅子の弟、独裁者チトーの元で映画を撮る映画監督、そして地下の面々に演奏家たち、様々な人間が渦巻き狂騒を繰り広げます。

正直、これほどの大傑作はそうそうないです。50年にわたるユーゴの歴史を描いた叙事詩であり、三つどもえの愛の物語であり、人々が織りなす狂騒曲であり、強烈な政治批判であり、古典的映画芸術への賛美と復興であり、驚きのぶっ飛びファンタジーであり、祖国をなくした悲哀であり怒りであり、同胞への思いであり、数十年にわたる欺瞞の暴露であり、喜劇であり悲劇であり、絵画であり舞台であり、田舎詩人の詩であり娯楽大作であり、総合芸術の極地、映画というもののひとつの到達点です。

一本の映画に様々な要素と見所が詰まっていて、「ここがおもしろかった」「ここが見応えあった」「ここすごかった」「このひといいひとだった」「このシーン強烈だった」と、例を挙げていくだけで日が暮れそうな、ぎゅーっと詰まった高濃度の作品です。
あまりにも多くが詰め込まれたこの映画、満腹を超えて気を失いそうになりますよいやマジで。

ヨーロッパが統合へと向かう中、解体される祖国ユーゴスラビアを憂い、エミール・クストリッツァはありったけの知識と経験と知見をつぎ込み、ついでに莫大な予算と大がかりなセットをつぎ込み、才能あるスタッフとキャストをつぎ込み、「アンダーグラウンド」を完成させました。
そして、作り上げて燃え尽き、公開後の政治的議論の渦に巻き込まれ、嫌気がさして映画監督を一旦引退しました。

論争に嫌気、引退した後復帰

確かにこの映画を作り上げた以上、もうやる仕事はないと判断してもおかしくありません。政治的な議論だけが原因ではなく、映画芸術としての極限でもあります。燃え尽きても誰もとがめません。

しかしふたたび監督に復帰します。いやはや、すごいエネルギーです。そして作ったのが「黒猫・白猫」です。一切の政治的スタンスを排し、徹底的に喧噪と狂騒を描いたぶっ飛び作品でした。この「やけくそ」と言ってもいいほどのハッピームービーでまたも高い評価を得て、古典芸術とドタバタの喧噪をミックスしたエミール・クストリッツァ節は唯一無二の存在感を放ちまくっています。

「黒猫・白猫」も「ライフ・イズ・ミラクル」もすばらしい作品だし、「アンダーグラウンド」の持つ騒々しさ、喧噪、入り乱れる人々、独特のダンス、音楽、コメディセンスなどの共通点を引き継いでいて、大きな流れとしてエミール・クストリッツァ節は十分健在です。

「アンダーグラウンド」の攻撃力

しかし後の作品には見られない「アンダーグラウンド」独自の強烈な攻撃力というものがあります。今まで未見だっただけに、95年のこの作品だけが持つ強烈な一撃には圧倒されました。

コミカルで騒々しい物語が続いたあげく、終盤に向けてすべての喧噪がひとつの狂気へ向かって転がり始めます。まるで白夜のパーティです。ベラスケスの絵画がボッシュの絵画へと変貌するかのようです。楽しいパーティが地獄のダンスとなり、夢のファンタジーは悪夢の現実と融合し始めます。映像の凄まじさに胸騒ぎが収まりませんでしたよ。さぶいぼ(対訳:鳥肌)ぼーっです。

いくつかの映画史に残るような見事なシーンを見せつけられ、心臓の鼓動がまだ騒いでいる最中にエンディングを迎えます。水辺から駆け上る牛の群れ。そして人間たちが島に登場します。一瞬あっけにとられた後、止めどもなく涙が流れますが、この涙はストーリーに感動した涙でも感情による涙でもなく、あまりにも優れた芸術作品に触れたときの魂の昂ぶりによるものです。最後の言葉で打ちのめされ、何度も聞いた音楽の演奏とともに「アンダーグラウンド」が幕を閉じます。

「だいけっさく・・」と呻くようにつぶやいて放心状態であります。

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アンダーグラウンド

美術

エミール・クストリッツァの描く雑然としてごちゃごちゃした喧噪の世界は、個人的に何かとても好きなものを連想させます。もうわかってます。テリー・ギリアムの映画です。ごちゃごちゃで騒がしくてほこりっぽくて躁病的でファンタジックで、なおかつ古典美術や絵画に根っこを持つエレガントさや重厚感があるという部分に共通点を感じます。
エミール・クストリッツァの映画は、それにくわえて古典的映画からの知見や参考が多く、より古典的映画技法が目立ち、そのためついうっかり昔の映画監督、あるいは年をとった映画監督と思ってしまいそうになりますが一回り若い世代です。

テリー・ギリアムと言えばジャン=ピエール・ジュネです。初めてジュネの映画を見たときは「テリー・ギリアムみたいやな」と普通に思ったものですが、やはり喧噪とごちゃごちゃ感が共通しています。

そしてジュネと言えば「デリカテッセン」なわけでして、やっとここまで来ました。「デリカテッセン」で世界に注目された美術担当、ミリアン・クレカ・クリアコヴィッチが「アンダーグラウンド」の美術担当です。あの秘密地下室のデザイン、そこの変な装置群、崩落寸前の建築物、逆さのキリスト像にユーゴスラビアを模った島、言われて納得知って合点。ミリアン・クレカ・クリアコヴィッチのファンタジックでクラシカルで美的で漫画的な美術が果たした役割も果てしなく大きいということがわかります。

ミリアン・クレカ・クリアコヴィッチは、89年「ジプシーのとき」、92年「アリゾナ・ドリーム」そして95年の「アンダーグラウンド」でエミール・クストリッツァと共に仕事をしています。「デリカテッセン」は91年で、ジュネとの仕事はこれだけです。だから “「デリカテッセン」の美術が「アンダーグラウンド」を手がけた” という言い方はちょっと逆かもしれないんですが。まあそんなことはどうでもよくて、とにかくすばらしい仕事をされたもので、個人的に超ツボな映画の美術が同じ人担当だったということを初めて知ってその共通点に喜び、こうしてはしゃいでいるというわけです。弟子入りさせてください。

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主要人物

マルコは悪魔のような男ですが悲哀も持ち合わせており根っからの悪人というわけでもない、監督によるとフロイト的な枠組みで理解できる役柄ということです。人を操り欺く天才、このマルコを演じたミキ・マノイロヴィチはほんとにいい顔してますね。踊り方も最高です。

クロは乱暴で強引、でも家族思いで優しいところもある男ですが信じやすい性格で、監督は「ユング的な原理に従っている」と述べています。クロの悲劇はもちろん信じやすすぎる点にありますが、これについても監督は「クロをゾンビ状態にしたのは拷問のせいではなくイデオロギーのためだ」と語っています。つまり上位存在を盲信してしまう人間というわけです。名優ラザル・リストフスキーが演じています。

三人の男に愛される女優ナタリアは監督曰く「自然の本能によって説明できる」性格としています。「この薄っぺらな娘は最初から三人の男を天秤にかけている」というわけです。こういう女性を見ると未だに「人間昆虫記」(手塚治虫)を思い出してしまいます。
しかしまあそれにしても魅力的な女優です。エミール・クストリッツァにかかればいつでも女優は最高ですが、薄っぺらだろうが本能に従おうがそんなことはお構いなしにあまりにも魅力的なのでそれだけでよしです。ミリャナ・ヨコヴィチは10歳から映画やテレビに出演を始めた女優さんだそうです。世界を股にかけて活躍したあげく、カリフォルニア芸術院の演技コース所長となっておられます。

そしてとてもとても重要な役柄であったマルコの弟、動物の飼育係で猿の親友、吃りのイヴァンを演じたスラヴコ・シュティマッツは「ライフ・イズ・ミラクル」で主演していたのが記憶に新しいところ(私の)
とてもいい役でした。

敵とか味方とか

この映画で監督は「セルビア人擁護」みたいな、あるいは「独立を否定するろくでなし」「独裁政権支持者」みたいな攻撃もされたようですが、「どちらかが悪と決めつけない、どちらにも偏らない」であり「内戦の原因はイデオロギーや民族ではなく大国の都合による貧困である」と強く主張しています。また、祖国の国名がことごとく変わっていく喪失感についても語っています。文化的な言い分としては、多民族の多文化が混在している状態のほうがより知見が広がると言い切っています。細分化は狭量になる方向にしか動かないということです。これは今でいうところのエコロジー的な発想です。多くの選択肢、代替と予備と無駄でできている世界が生態学的に望ましいということと同じ意味ですね。そういう意味でパリやニューヨークのような多種多様な価値観が混在している、いわゆる都市のあり方に肯定的な考えに至るわけです。
公開当時のインタビューで興味深いのは、この都会的センスを持った成功した監督が、チトー政権の傷跡から解き放たれていないためか、デモクラシーを強く肯定しているところでした。民主主義は完全でないかもしれないが、人間が手にした今のところ最良の選択肢であるといって憚らないんですね。この感覚は実際に独裁政治の憂き目に遭うとか祖国を失うとかそういった体験を持つ人間にしかわからないだろうと思いました。

日本でも、全体主義や戦争を強く嫌う世代はそれを体験した世代に多いですよね。それと同じかもしれません。将来的には現在の全体主義と内乱状態に陥った日本から、新たなデモクラシーの夜明け世代が生まれてくるでしょうかどうでしょうか。

5年後追記。哀しいことに専制主義と戦前回帰国家主義の蔓延によって、我が国でも民主主義の重要性とそれへの憧れが痛いほどに判る羽目になってしまいました。昔、戦前戦中時の全体主義に興味ありましたが、実際に目で見て体験できてしまうとは思いもしませんでした

ユーゴスラビア1989-1992
http://ja.wikipedia.org/wiki/ユーゴスラビアへ

言葉

「アンダーグラウンド」には名台詞もたくさんありますが、とりわけ印象に残る言葉があります。「許す。だが忘れはしない」がそれです。これを聞いたときはちょっと電撃が走りましたです。
この言葉、じつは「パパは出張中!」の中のセリフなんだそうです。お遊びとして自作から引用したなんて監督は語ってますが、この言葉が必要だから引用したに違いありません。

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コメント - “アンダーグラウンド” への7件の返信

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