クリーブランド監禁事件

Cleveland Abduction
記憶にも新しい(かもしれない)オハイオ州クリーブランドの誘拐監禁事件を描いた映画です。感想があっちこっちに広がりまくります。
クリーブランド監禁事件

劇場映画でなくてテレビ映画なのですって。さすがアメリカ映画大国、テレビ映画と言えどレベル高くて、そう聞かなければ気づきもしませんでした。でももしかしたら劇場公開されなかったのは別の理由によるものなのかもしれません。

実話を元にした映画と言っても大抵は純粋に映画として受け取ることがほとんどです。でもそれ以外に実話として受け取る比重が高いものもあります。事件の顛末から2年程度、言わば旬の事件を描いたこの作品なんかはそうした部類と言えましょう。話題の事件を映画化することでワイドショー的興味をそそる部分がないとは言えません。
この映画は事件の被害者たちを含め多分全員が実名で登場します。地名もそのままです。
こうした映画には道義的な是非の問題もありましょう。事件から日が浅い上に女性が誘拐監禁陵辱されるというセンセーショナルな事件を実名で映画化なんて、ちょっと驚きます。

先に擁護しておくと、この映画は単に事件を興味本位に描いているだけということはありません。いろいろと押さえるところを押さえていると思いますし、むしろ脚本上の取捨選択に相当気を遣ったことも伺わせます。

さて、困ったことになってきました。この映画について書き始めると、この映画そのものの出来映えと関係ない部分で書くことが多すぎて大変なことになりそうな予感です。

いろいろありますので頭を整理してみます。

実際の事件を描く
記憶に新しい直近の事件であること
事件が女性を陵辱する内容であること
クリーブランド監禁事件
描いたこと
貧困・格差
恐怖による支配
人間
犯罪者
凡人
ケア
映画として

メニューとしてはこんな感じですかね。

実際の事件を描く

「これは実話です」とわざわざ映画で宣言する意味は何でしょう。

・実話とは思えないほど無茶苦茶で荒唐無稽な話なんですよ面白いでしょ
・本当にあった話で、特殊だけど普遍性もあるんですよ社会の縮図ですよね
・本当にあったと言っておくと地味な話でもOKだし感動的でしょ
・有名な実話だけどちょっと掘り下げたり別の見方もしてくださいよ
・あまり知られていない実話だけど、知る必要があると思うんですよ

…と、ちょっと思いつくだけでいろいろありますね。実話を元にした良い映画もたくさんありますし、まあ、実話ベースってだけの括りはちょっと大きすぎるので絞り込みます。

記憶に新しい直近の事件であること

実話ベースの意味に加えて、それが直近の有名事件である場合はどうでしょう。「クリーブランド監禁事件」はこれにあたります。
直近の有名事件をフィクション化する動機は次のような事柄ではないでしょうか。

・センセーショナルで話題だしみんな野次馬的に見たがる筈
・びっくりするような特殊な事件で映画的に受けそう
・有名事件だけど掘り下げたり別の見方を提案することもできるし、ちょっと言いたいことがある

例えば最近観た「天使が消えた街」が真っ先に浮かびます。感想文ではおちゃらけたこと書きましたが「天使が消えた街」の主人公監督が苦悩したのがまさにこれです。「みんなが騒いだ真新しい有名事件を映画化するにあたって、どんな屁理屈をこねようが見世物的な動機が根底にあることは動かしがたい事実」と苦悩しますね。特に若い女性に関わる事件であったことがその苦悩に輪をかけます。

野次馬的な騒ぎに便乗する動機が全くないとは言わせません。ただし、野次馬的な騒ぎであったからこそ敢えて描くということも考えられます。つまり騒がれていた事件であるが、別の問題提起や掘り下げを行うことで表層から見えなかった別の見方をあぶり出すというジャーナリスト的な目線です。

事件が女性を陵辱する内容であること

まさにこれなんです。
ここにジェンダー方面の大きな問題が横たわります。若い女性が酷い目に遭う話がそんなに観たいのかという話です。年取ったおじさんが酷い目に遭う話では面白くならないのか。若い娘さんの不幸がそんなに好きなのか。客が見込めるのか。見込めるのでしょう。

女性の恐怖や絶叫はホラーやスリラーでは当たり前のように描かれます。むしろ基本です。「アイ・スピット・オン・ユア・グレイヴ」のような陵辱を娯楽として描くようなのも多くあります。こうしたジャンル映画の是非についてもちろん私は是の立場です。創作物に道徳的尺度はまったく必要ありませんし攻撃性や反社会的なるものへの欲求という興味深い定立だってあります。これはこれで芸術方面の話になりますので別の話です。

そこで実話ベースです。これが効いてきます。実話ベースには方向性があって、虚構として娯楽として創作物として構築する比重が高いのか、事実であることを強調してジャーナリズム的(あるいは興味本位)に構築する比重が高いのかということです。もちろんこの二つはどちらか一方ではなくてどちらも内包します。作り手または受け手にとっての比重の問題です。

とてもわかりやすい実例で示します。1965年に起きたバニシェフスキー家の虐待事件を描いた映画作品がふたつありまして、それは「アメリカン・クライム」と「隣の家の少女」です。
普遍性を伴う犯罪として多方面に深く描いた「アメリカン・クライム」に対して、少女陵辱を反省を伴わず見世物的に描いた「隣の家の少女」の違いがまさにそれです。
事件を普遍的なものに昇華させ社会の一面として鋭く描くことと、単に残酷娯楽として無反省に描くことの差が如実に出ています。
事件を描くとき、野次馬的ワイドショー的見地の色物であるか社会的な問題提起の目を持つのであるかと先ほど書いたことがここにも当てはまります。

クリーブランド監禁事件

ということでこの事件、事件の発端は10年遡りますが、事件が発覚して犯人が逮捕され裁判されまだまだこれからって時に無理矢理な幕引きが起きてしまい、それが2013年の出来事という、つい最近のことです。

事件の詳細がすなわちこの映画の骨子のストーリーとなりますゆえ、ここではなぞりません。
クリーブランド監禁事件 | Wikipedia を参照されれば詳しく載っています。

このつい最近の事件について、地名や人名を全部実名で作ったという、この意味はいったい何なのか、これが引っかかってなかなか感想文も進みません。

「天使が消えた街」のような葛藤が作り手にあったでしょうか。私はあったと想像します。葛藤の結果、「天使が消えた街」の映画内では映画が実現せず、あのような映画が完成しました。こちら「クリーブランド監禁事件」は事件に忠実な映画作品が作られました。

映画「クリーブランド監禁事件」の特徴は実名も含めて事実に即した作りになっている点です。ですが何を以て事実に即したと言えるのか。ここです。描く事実のチョイスというものに主観やメッセージ性が入り込みます。これは映画作品でもジャーナリズムでも同じことですね。

たとえばの話、バニシェフスキー家の事件を描くとしますね。少女に陵辱と残虐を加えたおぞましい事件です。これだけを描いても「事実を描いた」と言えます。でも出来上がるのは悪趣味な映画に過ぎません。好意的に見て、残虐行為を強調することにより観る者にショックを与えるという目的もあります。
主犯格の宗教観や暮らしや病状、共犯者たちが犯罪へ荷担していく様子、事件後の裁判での証言など多方向の事実を描き加えることで映画作品の意味が大きく変わってきます。

「どの事実をストーリーに組み込むか」は作り手の判断で、これがそのままメッセージとなります。大袈裟な脚色や演出によらず、事実に忠実であるが故にどの事実を組み込んだかという部分で映画の意図を表現することができます。

描いたこと

貧困・格差

貧困です。主人公女性は裕福とは言い難く、そもそも子育てが不適当だと施設に入れられてしまう我が子を迎えるため求職がんばったりします。貧困なるが故に雑な人間になってしまった母親の姿もしっかり描写します。
犯罪が起きた現場は黒人やヒスパニックが多く暮らす貧しい地区です。こちらは実際の事件でも警察の捜査が杜撰であったことが問題化したほどに貧しい地区で差別を受けていると言っても過言ではない、そんな地区です。

実際にもたびたび通報があったそうです。しかし犯罪は発覚しませんでした。映画でもそのうち一つがエピソードとして描かれます。気のよさそうな近所の黒人おねえさんが怪しいと通報しますが警察は聞き流します。

映画「ナイトクローラー」でテレビのディレクターが言いましたね。「貧困地区で殺しがあろうが事故があろうが、そんなものは誰も興味ないから映像も不要だ」と。
「同じことがもし中流層が住む郊外で起きていたら、警察はもっと真剣に対処していたはずだ」と言われています(プライバシーより命 誘拐事件FB連携で生還率高まる)。

これが貧困地区の現実です。警察の杜撰さだけではなく、社会全体が「どうでもいい地区」と認識しているその差別意識、差別の根本である移民や格差の問題が横たわります。

世界一の格差社会、貧困社会です。日本もどんどん近づいていまして大差なくなってきました。一部ではアメリカを抜いて最悪の国になりつつあります。例えば税の再配分をした結果のほうが配分前より子供の貧困が広がっているというちょっと考えられない想像を絶するデータが出てきているような状況で、最早国として機能していません。おっとそっちの話はいいとして。

恐怖による支配

この手の事件では必ず「逃げるチャンスはあったろうに、なぜ行動しなかったんだ」というような声が聞かれます。想像力のなさに呆れますが、恐怖による支配に嵌まった場合、人間は動けません。これは監禁事件に留まらず、独裁者による民衆支配にまで話を広げても同様の根深い問題です。

小さな世界ではDV夫から逃げられない人や監禁されて多少のチャンスがあっても動けない人、もう少し広げると支配者のボスの命令で簡単に犯罪に荷担する弱い服従する人々、さらに狂気の政治が行われていても権力を盲信して国家社会主義に突き進む独裁政党に投票してしまう人々、どれも同じメンタリティです。

コンプライアンス」を見て、警察の偽電話に騙されて従業員をいたぶる店長に「あんな嘘電話に騙されるなんて愚かすぎる」とか、「スノータウン」を見て「小さな世界に閉じこもってるから判断力がなくなるんだ」とか思う人に限って自分は正気の社会の正気の住人と信じ込んでいて端からは「なぜあんな間抜けで愚かな政治的選択をするのだ」と思われたりします。

人間

「クリーブランド監禁事件」の主人公被害者は強い意思を持っています。我が子との再会という願いがそうさせたのでしょうか。被害者のうち一人は早々に恐怖に支配されてしまいますね。被害者側の人物像も描き分けています。

被害者だけでなく、犯罪加害者の描き方が少し変わっていると感じました。犯人はDV男で残酷で無慈悲であると同時に、一方では社交性があってバンドをやったり近所の人と楽しく付き合ったりしていたそうです。その部分も描きます。
単純に二面性を感じておののくわけですがそれだけではありません。

犯罪者

犯罪者というのは、犯罪者という生物でも人種でも職業でもありません。犯罪をしでかしている以外の部分では、例え相当な変わり者であっても生きている人間です。
この事件の犯人に同情の余地はありませんが、それでも引っかかる部分があってそれもちゃんと描きます。彼は家族というものに大きなコンプレックスを抱いています。被害者を家族のように思い始めるあたりは特に強烈ですね。しかし彼はDV男でもあります。家族と家族への暴力は彼にとっての家族そのものです。何とも複雑ではありませんか。
もっとあります。
犯人はとてもルーズな人間です。ルーズであるからこそこの事件は長引きました。結果としてたいへん恐ろしい事件となりましたが、犯人にそんな自覚はなかったように思えます。
ここでまた別の映画を思い出します。「凡人」という原題の「変態男」です。

凡人

ルーズな凡人であるが故に、無計画に何かをやらかしてしまうし、決着を付けられず時間が流れていきやがて取り返しのつかないことになります。
この事件の犯人は極端さを持っていますが凡人でもあると言えます。
映画の後半、彼が思わず漏らす言葉がありました。「こんな大事になるとは思っていなかった」
犯罪者でない多くの人もこれに思わず共感しませんか。「こんなに長く放っておくつもりはなかった」と言い換えて、物置に置いたがらくたのことを想像してみましょう。誰もが「あるある」となりましょう。

犯罪者の多くに見られるのが想像力の欠落あるいは歪みです。そして犯罪者に対して短絡的直情的に振る舞う多くの自称正義の人、権威主義者や差別主義者の特徴も想像力欠落と歪みです。

2013年、他の件の裁判もこれからというまだ途中の状態なのに、この事件は無理矢理に終わってしまいます。たいへんずるい犯人です。彼はまったく罪を償っていませんし、逮捕から結末までの期間が短すぎて理不尽すら感じます。このことが彼の凡人性を際立たせます。犯人は凡人であるが故に恐怖したのではないですか。どうでしょう。

ケア

ついに犯罪が発覚し被害者が救出され事件が公になり、このとき当国では行方不明の状態からの続きでずっと実名報道がされていたそうです。普通の犯罪でさえ被害者を実名報道することには疑問もあるというのに、何だかすごいですね、アメリカって国は。

主人公被害者はとんでもない目に遭いましたが、事件後身を隠したりせず本を出版したりおおっぴらにいろんな活動をしたといいます。この強さは本人の強さだけでなく、犯罪被害者へのケアについてある程度コンセンサスが得られているからだという話があります。

拉致監禁被害者の実名報道はどうして可能なのか? | Newsweek

正直、アメリカがそれほど進歩的だと思えない節もありますが、ジョディ・フォスターの「告発の行方」が1988年。今では随分社会も進歩しているのだろうと想像出来ます。

日本を含めアジアでは女性差別が根強く先進国のようにはいきません。性犯罪被害者が身を隠したり、そもそも告発しないとか、酷い国になると被害者に刑罰があったり傷物扱いの酷い差別を受けます。まだそんなレベルでウロチョロしている国もたくさんあります。

「クリーブランド監禁事件」では事件発覚後しばらくのあいだ主人公を描きます。この映画では「どの事実を映画内で描くか」を本当に考え抜いたと思うんですね。事件後の主人公を巡るシーンは大事なシークエンスだったと思います。これにより、センセーショナルなだけの色物映画ではないぞという作り手の意志も感じます。

映画として

ちょっと力を抜いて純粋に映画としてどうかみたいなこともちょっと書きます。

感想ブログを書いているうちに自分の好みがどこにあるかだんだんと明白になってきた昨今ですがこの映画も好みのテイストがちらほらあります。それは細部の細かい演出部分です。
どの事実を映画に落とし込むかを熟考して詰め込んだと思いますが、ただ詰め込んではいなくて節々にあるちょっとした演出が登場人物を立たせます。わずかな会話や仕草にそれがあります。
ドラマとしての作りもわりといいですよ。

野次馬的映画とならないよう描く事実を見極めながら、ちゃんと細かいところも入れ込んだ脚本に敬意を表します。

それでも尚・・・

脚本に敬意を表しますし、映画的にも悪くない(むしろいい出来)、しかしながら、最初のほうで書いた「天使が消えた街」的なる疑問はやはり最後まで付きまといます。

これほどちゃんと映画として描いていてもポスターやカバーアートはこうなりますし、敢えて無視していましたがこの映画の邦題は「クリーブランド監禁事件 少女たちの悲鳴」という色物です。どう作ったところで売り方はこうなるんです。
そして多分、この映画に興味を持つ人間の多くがセンセーショナルな部分や「監禁」「少女」あたりに反応するんでしょうし、この長文感想文もgoogleにはアダルトサイトのキーワードとして処理されてお仕舞いでしょう。

2016年の今現在「ルーム」という映画が公開されています。内容的に「クリーブランド」と被る部分がありますが「ルーム」のほうは真っ当な作品として配給、宣伝されています。もちろん内容もストーリーもまったく異なりますし、メッセージ性やメインの部分の描き方の比重も違います。
完全にフィクションであるか、実名まで出した実際の事件であるかという点もあるかもしれません。でも「クリーブランド」のほうは公開もされず変な邦題を付けられ、「ルーム」は名作扱いです。この温度差は些細な違いから生まれるんですね。「ルーム」の感想も近々書く予定ではいますが。

そういえば「アメリカン・クライム」も劇場公開していません。動員的な理由が一番かと思いますが、ではなぜ動員が見込めないか、受けが悪そうなのか、その内容が社会的な普遍性を伴っていることも理由のひとつと思えてなりません。

予想通り、この映画そのものから多方面に話が広がりいろんな他の映画タイトルも出てきて、まるでこっち系統のMovieBoo総決算みたいになってしまいました。
「クリーブランド監禁事件」という映画そのものが大騒ぎするような出来映えかどうかは別として、ついついこうなってしまいまして、でも実はまったく書き足りなくてまとめ方も下手糞なのでちょっとどうかなと思いつつとりあえずこんな感じで。

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