ジミー、野を駆ける伝説

Jimmy's Hall
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公開年:
2014
製作国:
監督:
製作:
  • レベッカ・オブライエン,グレゴワール・ソルラ
  • グレゴワール・ソルラ
製作総指揮:
脚本:
撮影:
音楽:
美術:
編集:
主演:
  • バリー・ウォード
出演:

ケン・ローチ監督2014年の「ジミー、野を駆ける伝説」は1930年代アイルランドの実在の人物ジミー・グラルトンを描いた作品です。ジミー・グラルトンとはどんなひとでしょう。こんなひとです。

ジミー、野を駆ける伝説

アイルランド内戦は、イギリスからの独立戦争後に真の独立派とある程度の従属派(実際はこんないい加減な呼び方じゃないですよ念のため)が対立して戦争にまでなってしまった悲劇です。独立戦争よりも犠牲者が多かったという何ともやるせない内戦で、いまだに北アイルランド問題の根っこにありアイルランドの政治に影響を及ぼしています。この件についてはケン・ローチ監督の「麦の穂をゆらす風」という名作がありますね。

で、本作はその内戦終結10年後のアイルランドです。アメリカで暮らしていたジミー・グラルトンが故郷に帰ってくるお話です。ジミー・グラルトンとは何者でしょうか。さあ何者かわかりません。何やら活動家っぽい人だったことは伺わせます。事情があってアメリカに逃げていたんでしょうか。そのようです。で、帰ってきます。

ジミー・グラルトンがアイルランドやイギリスでどの程度名の知れた人かわかりませんが、特にどのような活動かだったかを知らなくても大丈夫、というか知らないほうが面白く観れます。

というのも、この映画はジミーが帰ってきてからのお話と、故郷を離れることになった10年前の出来事が交互に描かれまして、以前どのような活動をやっていたかを知ることもストーリーに組み込まれているからです。

最初は何やら活動家だったっぽい、とはわかるものの、どういう活動をしてきたか知らないまま見続けて、政治的な話になるのかなーと思ってたらそっち方面ではないという、まずそこに驚きがやってきます。この驚きはそのままこの映画を貫いて、結局政治的な話になりません。

いや。ちょっと違うな。政治的になります。もちろんなりますが、いわゆる政治的な活動の話じゃありません。いや、政治的な活動ですが、そうじゃなく。

何を言ってるんだこのばか。と今思いましたね。その通りです。どう言っていいのやら。

えーと感想ということでいいますと、面白かったポイントがまさにそこにあるんです。内戦に絡む政治活動の話かと思っていたらそうではなく、そうではないのかと思って見続けるとそれこそがまさに政治的活動の話であったという、そういうことです。この感想はジミーという人を全く知らず、この映画がどんな映画かぜんぜん知らなかったからこそなのですよ。

「ジミー、野を駆ける伝説」は大袈裟な邦題がついてますが原題は「ジミーのホール」です。なんですか、ジミーのホールって。何かというと、村に作ったホールなんです。言ってみれば市民会館みたいな、そういう村の人たちのためのホールをジミーが整備する話なんですね。ダンス教室やったり、演奏教室やったり、お芝居や読書なんかを人々が自主的に行う手作り市民会館です。

んで、活動ってのはこのことです。なんとまあ。どんな政治活動かと思ったら手作り文化教室の市民会館を作る話だったというわけです。

村の人たちはダンスしたり読み書きを習ったりします。人間にとって重要で価値があること是すなわち文化です。音楽であり読み書きです。そして独立戦争と内戦を経てきたアイルランドの一地域において、市民が音曲にうつつを抜かしたり外国文化にかぶれるなど言語道断許せんという立場の教会や権力者たちがおります。支配者層にとって最も好ましくないのは、下々が賢くなることです。賢くなったり、文化に親しんだり、知能を高めたり、他国に影響を受けたりすることは許しがたい暴挙、それを煽っているジミーは不届き千万な左翼活動家と、こうなります。

文化や連帯や生きる希望や知恵というものは左翼の政治活動であるということで、迫害されても脅されてもやり続ける文化の男ジミーと彼をしたう村人たちの話が紡がれます。

何も考えずだらだら書いておりますが、だからこの映画は決して大袈裟な政治活動をした大袈裟な人物を取り上げたものではないのです。その分、何ものかがびしびし迫り来るのです。

右翼や左翼というような言葉はとっくに死語であると私は若い頃考えていました。フランス革命のときの話であるし、冷戦時代のデマが元にある話だし、下々が文化を手にする事における支配者との関係の中で利用された話であるからです。そんなものは歴史の中ではすでに過去であるという事実がありますから、死語であると思っていました。

ですが世の中の不穏と共にこの言葉が復活をし始めましたね。使われ方が変ですが、この言葉は時代や場所に応じて好き勝手に意味を変えながら使われてきたさもしい言葉です。

以前の使い方そのままで言うならば、今の先進国社会はすべて左翼で成り立っていると言わねばならないのですね。人の尊厳を重視し、どんな人にも人間としての生きる権利があり、どんなひとでも音楽を聴いたり読書をしたり映画を観たりできます。本を出版することもできるしブログで吠えることもできます。まさに左翼の社会ですよ。でもまあ、今は使い方も意味も変わってきているようですけど。でも執筆して出版して庶民に本を読んでもらおうとするような人が左翼攻撃をする変な右翼だったりしたらちゃんちゃらおかしいと思ってしまいますね。君のやれていることそのものが左翼社会の上に乗っかってるじゃんという。

アイルランドの30年代に音楽やダンスを市民に開放したジミーという男の映画を作ったケン・ローチ監督です。その意図はどこにあるのでしょう。ジミーは左翼活動家と迫害されます。迫害されてもへこたれません。でもさぞかし悔しかったことでしょう。

ジミーもへこたれませんが、村人たちもいいですよ。書く隙がないのでここでちょっとだけ言いますけど、ケン・ローチ監督の映画はドラマ部分が細やかで社会的なことを描いても登場人物たちが立つドラマとして良く出来ています。権力者の娘とか、いい味わいで描きます。悪者に近い連中にも人間性を持たせますね。優しいですねこの監督は。

ということで、この映画を観てジミーを国家転覆を狙う左翼活動家だと思うような人がいるでしょうか。いたらちょっと怖いですがいるかもしれませんね。今時はね。だからこそ「ジミー、野を駆ける伝説」みたいな映画が作られてしまうのかもしれません。

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