堀の中のジュリアス・シーザー

Cesare deve morire
重罪で服役中の囚人たちが「ジュリアス・シーザー」を演じるという映画です。巨匠タヴィアーニ兄弟がレビッビア刑務所とコラボって製作されたという異色作品。
堀の中のジュリアス・シーザー

イタリアの重罪犯罪受刑者を収容するレビッビア刑務所では演劇実習プログラムというのがあって、更生プログラムの一環として受刑者が演劇をやるそうです。毎年やってるそうで、かなり本格的でレベルが高く、ちゃんとお客さんが入ったりするような割と凄いイベントと化しているようなのですね。
この刑務所と巨匠タヴィアーニ兄弟がコラボって作り上げたのが「堀の中のジュリアス・シーザー」です。囚人たちが「ジュリアス・シーザー」の演劇練習にのめり込む様や、実際の演劇シーンなども楽しめそうです…

公式サイトや宣伝をあれこれ見ても、どうもこれ腑に落ちない面がありまして、それは、この映画がドキュメンタリーなのか創作ドラマなのか、明確に言わないことです。なんかね、ずるい宣伝をしてたんですよ。
撮影は刑務所で行われ、出演者の囚人たちは皆本物の囚人なのだそうです。その彼らがオーディションを経て練習を経て「ジュリアス・シーザー」を演じるのだと、そういう説明をしているわけですから普通に考えるとドキュメンタリーと思うのが筋です。私もてっきりドキュメンタリー映画だと思ってこれ見ました。いつ観たっけかな。

ドキュメンタリーと思って見るかそうでないと思って見るか、見方によって「堀の中のジュリアス・シーザー」の感想は変わるでしょうか。それが変わるんですよね。どうしても。
ドキュメンタリーと思い込んでたものだから、撮影にまずびっくりしてたわけです。やたらアップのシーンがあったり、個室に入り込んで細かな会話を拾ったり、カメラや照明がドラマっぽくなってたりするわけです。ここで「偽ドキュメンタリーだな」と思ってしまえば良かったんですが以前観た「アルマジロ」という壮絶ドキュメンタリーの例もありますし、カメラクルーのものすごい撮影なのかもしれぬとまだドキュメンタリー映画だと思い込んでいました。
映画の後半になると囚人たちの迫力が半端なものじゃなくなります。演劇そのものもとてつもない力が入ってきて、壮絶なる映画的昂揚に包まれます。このあたりを中心に感想文を書くとすれば、絶賛べた褒め系の超すごい映画、っていうふうになります。いやほんとすごいんです。それは確かです。しかしまだ観ているときはドキュメンタリーだと思っていたわけで、その前提が覆されたらまた違った印象を持ってしまうのです。

答えを先に書きますと、ヤラセドキュメンタリーということでした。酷い書き方ですね。でも一言で説明するとそうなります。
レビッビア刑務所で演劇プログラムをやってるのは事実ですが「ジュリアス・シーザー」をやることになるのは映画の企画だったそうです。そういう意味でも刑務所と映画のコラボです。それはいいです。

囚人たちが本物の囚人っていうのも事実ですし、彼らが「ジュリアス・シーザー」を必死で練習して披露するのも事実。ただ、囚人といいながら実は服役を終えている元囚人が映画のために参加しているという例が混ざってるそうです。どうしても映画に出たかったんでしょうか。

練習中のいろんな出来事は映画の脚色がまぜこぜになってるのだそうです。ここらから怪しくなってきます。囚人の苦悩のシーンや、どうやって撮ったんだろうと思うアップや言葉のシーンはドラマだったのです。でも全部が全部脚本のあるドラマというわけでもなく、本当のドキュメンタリー的シーンも混ぜてあるのだそうです。何かの資料なんかで「このシーンはドラマ」「このシーンはほんと」みたいなのって用意されてるんでしょうか。多分されてるわけないですよね。それを見分けることは難しいと思います。

はい。そろそろお気づきかと思いますが、ちょっとここまではカマかけて書いておりまして、以降この特殊で挑戦的なすんごい技法について考えます。

この映画の技法、悪い言い方をするとヤラセドキュメンタリー、文学的な言い方をすると多重構造の虚と実の混ざり合いということになります。

実際ヤラセドキュメンタリーです。ドキュメンタリーの振りして一部事実を交えつつドラマをやらせているわけですからね、囚人たちに。
で、虚と実についてこの映画が作り上げた構造というものを順に考察します。いつものようにレイヤーに分けて考えてみましょう。

そもそも「ジュリアス・シーザー」は演劇ですから虚構です。しかし映画の中で最終的に我々観客は完全に「ジュリアス・シーザー」を観ている状態となります。このあたりが巨匠兄弟監督の凄みと言っていいのですが、最早「演劇として演じられたジュリアス・シーザー」ではなく、「ジュリアス・シーザー」そのものに呑み込まれているんです。だからそうですね、「ジュリアス・シーザー」にのめり込む演劇シーンを「ジュリアス・シーザーのレイヤー」としましょう。

それ以外に、刑務所敷地内で練習とは最早呼べない完成されたリハーサルを部分部分でやるシーンがあります。ここでも「ジュリアス・シーザーのレイヤー」同様、シーザーに呑み込まれますが、同時に「『ジュリアス・シーザー』という演劇」に呑み込まれるところでもあります。これを「ジュリアス・シーザーという演劇レイヤー」とします。

ここでさらにレイヤーを追加します。「『ジュリアス・シーザー』を演じる囚人」です。メタテイストが含まれたさらなる虚実混濁が現れます。「『ジュリアス・シーザー』の世界を作り上げる『ジュリアス・シーザーという演劇』を演じる囚人たち」というわけです。大分ややこしいことになってまいりました。

さてまだあります。ここでさっきカマかけてヤラセドキュメンタリーと言った事柄をさらにレイヤーとして追加するわけです。
そうです、すでにおわかりの通り、それはズバリ「「ジュリアス・シーザー」を演じる囚人を演じる囚人のレイヤー」です。

この4つのレイヤー、即ち「ジュリアス・シーザー」「ジュリアス・シーザーという演劇」「演劇を演じる囚人」「囚人を演じる囚人」がですね、時に単独レイヤーで、時に重なりあって、虚実入り交じり混濁状態を作りつつ「堀の中のジュリアス・シーザー」という映画を構成しているんですよ。

映画のクライマックスでは刑務所全体が撮影所であると同時に刑務所であると同時に舞台であると同時にローマになります。

人間たちは囚人であると同時に演技者であると同時に舞台役者であると同時にローマ人になります。何もかもが混濁し同化し見ているこちらは全身鳥肌状態で息も絶え絶えです。

この映画がドキュメンタリーなのか偽ドキュメントなのかという問いかけ自体が、映画の一部レイヤーに対する感想に過ぎない単純思考であったとわかります。

最初にカマかけて書いたように、そういう言い方するのであれば、正しく「この映画は一体全体、ジュリアス・シーザーの映画なのか、はたまた演劇の映画なのか、あるいは演劇を演じる人の映画なのか、演じる人を演じるドラマを見る映画なのか、そもそも演じるとはどういうことなのか、映画とは、虚構とは何なのだ、わしは何を見ているのか、ここはどこであたしは誰なの」と、そういうあたりまで疑問を持たねばなりません。

ややこしい話に終始して恐縮でした。
ここで最初に戻り、この映画をまだ観ぬ人に単純に紹介してみようと思います。

重罪で服役中の囚人が刑務所のプログラムである演劇実習を本格的に行う映画です。と、聞けば普通の人はこんな映画だと思うでしょう。

「犯罪者が演劇の練習に打ち込み、ときに喧嘩したりときに気分が落ち込んだり、でも皆のガンバリで立派な演劇発表会が成功して拍手喝采、ええ話やなー」
そんなタイプの映画と思われるかもしれません。でもね

全っ然違います。

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