アナとオットー

Los Amantes del Círculo Polar
Ottoは逆さから読んでもOtto、Anaも同じく逆さからでもAna。 子供の頃に出会い、ずっと一緒で、途中離ればなれ、その後はどうなるアナとオットー。二人とその家族の物語。
アナとオットー

あ、あかん。「この方がフリオ、あたしがフリア、フリオとフリア、似てるわね、フリオとフリア、あははは」という馬鹿なセリフが脳にこびりついて取れなくなってしまったのをどうしてくれる>エンド・オブ・ザ・ワールド

だから「逆さから読んでもオットー」「あたしも逆さから読んでもアナ」というセリフが何度も出てくる「アナとオットー」をなかなか真面目に見ることができません。というのは言いすぎですが、スペイン人は日本人と同じような駄洒落が好きなんですか。

アナとオットー scene

ベタな翻訳で「北極圏の愛好家」という原題の「アナとオットー」は、アナとオットーの愛の物語ですがタイトルが示すとおり北極圏がキーとなっているミステリーでもあります。ただの愛ではなくちびっ子の頃、思春期の頃、大人の頃というふうに長い時間の断片を追っかけます。長い長ーい愛の行方です。同時に家族の物語でもあります。アナとオットーは親の都合で家族になったりします。

ちびっ子のころはそれだけで見応えあるちびっ子映画で、思春期の頃はそれはそれで見応えのある性と青春の映画で、大人になってからはちょっと妙なモラトリアム的映画に変わってきて、それから北極圏がキーとなる謎をおもっきり引きずったまま北欧物語となり、映画の中で世界がどんどん転がり続けます。話がたくさん詰まっています。一言で言えない複雑な物語です。

スペイン映画名物の複合的スリラーをスリコンとか言ってますが、この映画はスリラーだけでなく愛のドラマで思春期ドラマで家族のドラマでその他いろいろ複合的映画です。ですのでもはやスリコンではなく、ただただ複合的、つまり略すとコンです。
この映画、コンです。

わけのわからないこといってないでコンたる所以ですが、たくさんの物語が詰まってるだけではなくて主人公も変わります。というか、簡単な章立てになっていて「オットーの章」「アナの章」「オットーの章」「アナの章」と、アナとオットーがそれぞれ主体となり物語の追体験なんかをやります。つまりエレファント的構成です。しまいには「アナとオットー」なんて混ざった章も出てきます。そんでもって「北極圏が好き」章まで飛び出します。まったくもって盛り沢山です。

アナとオットーがそれぞれ主人公となる一人称の独白付き章立てですが、観ていて「私」がころころ変わるのは実に変な感じです。でもこれ、変な感じを受ける人とまったく受けない人がいます。なぜかというと、少女漫画がこの技法を多用したからです。

ある日何かの少女漫画を読んでいて発狂しかけたことがあります。何コマか進む度に「私が」と独白する主体がころころ変わるんです。
最初は主人公少女が「アタシが何何して、こうだったの…」みたいな感じで何コマか進み、そのあと彼が唐突に「ぼくがこうこうで、あれこれやってて…」、そのあとまた別の人が「あたしのこの苦しみが…」とやらかします。下手したら誰がどの状態で誰に語ってるのかまるでわからない「暑い…」なんてのも混ざり込みます。
何事が起きているのかわからず、少し読んでは戻り、少し読んでは戻りしていました。「分裂」と思わず呟きます。

ですので少女漫画を読み慣れた人には主体がころころ変わる違和感なんてのは最初からないものと思われます。
「アナとオットー」は幸いアナパートとオットーパートのふたつの繰り返しで、しかもちゃんと章立てのタイトルが出てくるので発狂しません。とてもわかりやすいです。

主体がころころ変わる以外にも少女漫画的アプローチがこの映画にはあります。アナを支配する「偶然をよびよせる力」が岩館真理子作品を彷彿とさせます。ネタバレになるので具体的には書きませんが。この件ではツッコミを入れたくなる男の子もいるでしょうが、野暮なことは言いっこなしで。

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子供の頃から大人までの時間軸を描きますから、映画の中で時に大胆な時間の省略を行います。またある部分ではある瞬間を大きく引き延ばします。こうした構成の面白さも独特です。はっとするような演出で時間を飛ばします。

ちびっ子パートはほんっとに良いです。簡単だけどその実しっかりした愛の言葉を書き綴り紙飛行機にして飛ばす少年オットー。雪を駆けて転んだときに目に入ったオットーをじっと見つめるアナ。青臭い絶望主義に浸る父親にビンタするオットー。車で「Soy Ana」と声をかけるアナ。「Soy Ana」と言えば「ミツバチのささやき」。もう可愛らしいちびっ子が「Soy Ana」と言うだけであたしは目眩がします。

思春期の頃にはもうすでにアナとオットーは愛し合っています。ここでは家族の問題が中心となり、アナとオットーそれぞれの親とその関係がドラマチックに展開します。ついでにちょっと性のエピソードもあったりして、わずかながらドキッとするエロティシズムを感じさせます。
フリオ・メデムは後に「ルシアとSEX」や「ローマ、愛の部屋」といった官能的幻想的な作品を作りますがその片鱗も少し感じさせます。聞くところによりますと日本で紹介されていない初期作品はもっと攻撃的なタイプなんだそうな。
「アナとオットー」も、ただのほんわかしたラブな物語と思ったら大間違いで、奥底に激しさや攻撃性を感じます。

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大人と言っても若い大人ですが、その頃にはオットーが情けないことになります。「なんじゃこいつは」と呆れられるかもしれません。でもスペイン女はこういう情けない男が好きなのさ(えっ、違いますか?)

その後はもう凄いことになってきます。タイトルにも入っている北極圏のことは冒頭でちょい出ししてから知らんぷりですが終盤に向けて完全に中心になります。
北欧ロケで映画の世界が変わります。

北欧パートで出てくる「アキ」という名のおじさんがいますが、このおじさんがもう最高です。わざわざこれほどこのおじさんを面白く描く必然が「アナとオットー」的にあるのかと思えるほどですが、それがあるのですよねえ。北欧パートは重要だし、おじさんも重要です。そしてここに来てこの映画はミステリーの形相を帯びてきます。これまでミステリー感なんてひとつもなかったのに。と、思いきやそうではなく、これまでも随所に伏線を張りまくっていました。少年少女の愛や家族の物語を貫きながらスリラー要素ははじめからぜんぶ含ませていたんですねえ。いったいこの映画はなんなのでしょう。それはコンです。

Los amantes del circulo polar

馬鹿馬鹿しさをも内包しながら北極圏での終焉に向かって物語は疾走します。「あーっ」と小さく叫び、そのシーンのモダンでユニークな撮り方に頭がくらくらします。このシーンの撮り方はこれまで映画の中で決してなかったジャンルのテイストです。これには驚いた。

パズルのようにクールに組み立てつつ、哀愁や辛さといった心も描き、ワイルドで珍妙な映画技法も噴出し、複数主体の分裂感も醸しだし、意外な展開やサスペンスも提供し、その中で移ろいを感じさせ、不可逆的な時間に郷愁と後悔を混在させます。
ものすごく変な映画です。でも余韻を残します。

フリオ・メデム監督はとても技巧派であると思いました。

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