タンゴ・リブレ

Tango Libre
タンゴのダンス教室に通うJCが胸ときめいた女性アリス。そのアリスの夫フェルナンは親友ドミニクと共に刑務所に入っている囚人で、その刑務所の看守がJC。看守が妻とタンゴを踊ってると聞いて怒り心頭の囚人フェルナンであります。
タンゴ・リブレ

「タンゴ・リブレ」というタイトルや踊ってるポスター、配給が用意したイントロダクションなどを見てみると、これは誰がどう見てもアルゼンチン・タンゴを全面に出した華やかな映画に違いないと思うに違いありませんで、じつは私もそう思ってしまったわけです。

そんなふうに思い込んでしまうとですね、アルゼンチン・タンゴの数々の名曲が堪能できるのでは、とか、刑務所内での激しいダンスシーンのクライマックスの盛り上がりとか、そういうですね、想像しやすい安易な期待に胸膨らますことになります。

そのような音楽・ダンス映画としての華やかさを期待して見終わるとですね、何とも消化不良のような気分に一瞬陥ることになります。これ最初に言っときます。

この映画は、決して華やかで楽しさに満ちたダンス映画なんぞじゃございません。
基本、ひとりの女を巡る男たちの愛憎のドラマです。コミカルですがコメディでもなく、深刻な振る舞いのシーンも多くあります。そしてアルゼンチン・タンゴを全面に押し出すというより、愛憎劇の媒体としてアルゼンチン・タンゴが存在するという程度の扱いです。
という感じでですね、さすが捻りのきいたフランス映画だな、と、見終わったあとの一瞬の消化不良感というものに少し引っかかりが残りまして、そういう感想をまず持ちます。

でもね、でもですよ、違うんです。さらに違うのです。咀嚼したり映画を思い返すとですね、これが何と、全く別の顔をもたげてくるようにもなってくるんですね。これぞまさしくアルゼンチン・タンゴの映画ではあるまいか。と、まるで感想が裏返ります。まったくもってタンゴ・リブレです。どういうことか。
こういうことです。

さてその前に物語はと言いますと、一人の女を巡って3人あるいは4人の男たちが絡む愛憎劇です。

まず主人公JCです。刑務所の看守で、タンゴのダンス教室に通っています。そこで出会うアリスに一目惚れ。
アリスは15歳の息子を持つ憂いある女性で、夫フェルナンは重罪で服役中です。刑務所内でJCは夫の面会にやってきたアリスを見つけますね。
夫フェルナンは粗野に見えるワイルドな男です。嫉妬心が強く、妻のダンス教室通いもあまりいい気がしていません。
もうひとり服役囚が登場します。フェルナンと同室のドミニクです。このふたりはコンビで捕まりました。アリスとも非常に親しいのです。アリスの15歳になる息子アントニオに対する態度とか見ていると、まるで家族同然です。ちょっと前半彼らの関係を謎として引っ張ります。
息子アントニオは思春期らしい不良っぷりを見せたり、母親に対する愛情やまだ少年であるということなどにコンプレックスを持っており、彼なりに複雑な思いを抱いて日々暮らしています。

刑務所内でのアルゼンチン・タンゴのシーンは映画の中では後半の手前に用意されていまして、こういうシーンを決してクライマックスに持ってこないというのが脚本的演出的に洒落ています。
クライマックスでないにしろ、それに匹敵する素晴らしいダンスに関するシークエンスが目白押しです。
つまりダンスシーンだけでなく、アルゼンチン・タンゴについての精神論と言いますか、起源や考え方にも踏み込みます。

そういうシーンの重要な登場人物である刑務所内でタンゴを教えるアルゼンチン人のボスとその子分がおりまして、この二人の対照的でもあるダンスの技術やパワーはかなりのものです。
それもそのはず、ボス役のチチョ・フルンボリはタンゴ・ヌエボと呼ばれる流派の有名大物ダンサー、子分役のパブロ・テグリは熟練の伝統的タンゴダンサーで世界的な名士であるということで、そういうモノホン二人がガチーっと演じてるわけですね。だから自ずとシークエンスに力がみなぎります。

アルゼンチン・タンゴは動きや姿勢に攻撃的な部分も持っています。起源的には、男ひとりで踊っていたものらしいのですね。それが次第に男たちによるダンスになるのでして、その訳は数少ない女をモノにしようとする生物的男的に必死なアピールであったのだとのことです。やがて男女ペアで踊る官能的なダンスに変化していったアルゼンチン・タンゴですが、この根っこの重要性がしっかり映画の中で伝えられます。

この話を劇中チチョ・フルンボリが語ります。囚人フェルナンは目を輝かせ聞き入りますね。
もうひとりの囚人ドミニクは最初アンチ・ダンスですが、やがて官能的なタンゴに魅了されます。ドミニクはダンスによって自らのある部分に気づかされたりします。
アルゼンチン・タンゴが秘めている攻撃性や官能性は己にも容赦なく襲いかかります。綺麗素敵みたいな軽々しいものではないということです。

さて、アリスというひとりの女を巡るJCとフェルナンとドミニク、そして息子アントニオの4人の男たちですが、まさに愛憎劇の中でアルゼンチン・タンゴを実践しているという、そういう物語となっています。各人それぞれ個性的なダンスを踊っているような筋立てです。愛憎劇のストーリーそのものがアルゼンチン・タンゴで出来ているという捻くれた映画らしい構成です。

ここまで気づけばオチの素晴らしさがじわりじわりとやってきます。
コミカルな要素は控えめな進行でありますが、最後の最後は実にあっさりとコミカル路線で逃げ切ります。
あれほどうじうじしていた鬱陶しいJCも深く沈み込んでいたドミニクも皆晴れやかです。

というわけで、そんなわけです。
ダンスや音楽に満ちた楽しい映画だと思ってると若干期待外れに思ったりするかもしれませんが、よくよく見ていると実に何ともパーフェクトにアルゼンチン・タンゴの映画であったとはっきりと気づくという、そういう映画でした。

映画ストーリー的には一見タンゴタンゴしていませんが、エンドクレジットのバックに流れる刑務所内のドキュメンタリー的タンゴシーンが好印象に追い打ちを掛けます。

さて男たちを引き寄せる蝶のような女アリスです。男たちを翻弄し自分は何だか好き勝手やったり勝手に落ち込んだりしますがいい加減なところも含めて魅力的なんです。物語ダンスの中心にいるこの女の役割の重要性は全体を俯瞰するとはっきりと見えてきます。
アリスを演じたアンヌ・パウリスヴィックは本作の脚本家でもあるんですって。実にわかってらっしゃる。脚本の意味とアリスのキャラクターのほんとよく練られていること。煙草の吸い方も粗野でかっこいいぜ。

主人公JCはうじうじした男で、ちょっと情緒的なうじうじシーンも多く、イラつかせます。ぬぼぼーっとして生真面目な風貌は一度見たら忘れない、フランソワ・ダミアンが演じてます。「ナタリー」という映画ではダサいけど気の優しいスウェーデン人の役をやってましたね。

ナタリーと言えば原題「ナタリー」であるところの「恍惚」です。この「恍惚」の原案フィリップ・ブラスバンが本作のもうひとりの脚本家です。

アリスの夫フェルナンを演じたのはセルジ・ロペスです。ここぞというときにお会いしますね。「リッキー」のパコです。「パンズ・ラビリンス」の悪者や「しあわせの雨傘」などにも出てましたが未だに「おっ。リッキーのパコやん」と、そんなふうに思ってしまうのは単に「リッキー」が私のお気に入りだからですね。
刑務所内で「アルゼンチン人はいないか」あたりのシークエンスの面白いことったら。

印象深い風貌のドミニクを演じたのはジャン・アムネッケルという人で、「ミスター・ノーバディ」とか「サン・ジャックへの道」に出てる人でした。

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