ストーカー

Сталкер
危険地帯「ゾーン」へのツアコン、ストーカーと呼ばれる案内屋が作家と科学者を引き連れて進みます。タルコフスキーの超傑作、文芸哲学ハードコア社会心理精神分析ホラーSFの金字塔「ストーカー」はこちらです。
ストーカー

当時まだ「ストーカー」という言葉には付きまとい犯罪者のイメージがなかったわけで、「ストーカー」って変な言葉。何?石?アヒル?などと馬鹿なことを思っていたのですが、この映画では「ゾーン」への案内屋を指します。当時だれかに「練り歩く人って意味だよ」と聞きまして、へえそうですかと思った記憶も今は昔。

さて映画部の奥様未見名作シリーズ午後8時の映画祭でもとうとうタルコフスキーを観るときがやってきました。奥様はタルコフスキー未体験者です。誰に聞いたか、退屈だったらどうしようなどと思っていたそうで、見終わって衝撃と感動のあまり椅子からずり落ちてナメクジ人間と化しながら「すごい・・・すごい・・・」と、のたくり倒してしばらくは言葉も出ないご様子。杞憂を一蹴しました。

「ストーカー」とは一体全体どんな映画でしょう。

「ゾーン」という謎の地帯がある地域に出現しておりまして、隕石が落ちたとか宇宙人の仕業とか原発事故とか色んな原因が考えられますが、とにかくその地域は立ち入り禁止地帯で誰も近寄れません。でも行きたい人もいる。そんな人を案内するのがストーカーと呼ばれる人たちです。一種のヤバい職業です。
ある疲れ切ったストーカーの男がベッドから起き上がり、絶望的なご様子で家を出て待ち合わせのお店に出向きます。そこにやってくるゾーン探検希望者の男たち。作家と科学者です。彼らを引き連れ、ゾーンへ向かいます。警備をかいくぐってお客さんをゾーンの奥底に連れて行くストーカー。
この作品は二部構成になっていて、ゾーンに到着するまでの前半とゾーンの奥底にある「部屋」を目指して胎内旅行していく後半に分かれています。
「ゾーン」とはどういうところか、どんな危険や謎があるのか、目的地に何が待ち構えているのか、このストーカーの男はどういうやつなのか、なぜそんななのか、作家と科学者はどんなやつで、何を目的にしているのか、と、そういうお話です。
きわめて真面目で真っ当な文芸哲学ハードコア社会心理精神分析ホラーSFとなっております。
何から何まで象徴と隠喩に満ちており、その映像は明暗から角度から色合いから照明からすべてがアート作品のような美しさで、全シーンが想像力を刺激し、恐怖や不条理感で脳味噌破裂寸前にまで鑑賞者を追い詰めます。圧倒されてぜいぜいはあはあ言ってると、ラスト近くでは映画そのものをもう一段階別次元へ旅立たせる大変面白くて重要なシーンが突如登場しメタテイストも内包します。ここまでくると動悸も激しくなってきて、映画のサウンドなのか自分の鼓動なのか区別がつかなくなる音に包まれながらラストシーンをじっと見つめる以外何もできなくなります。

タルコフスキーは没後日本で大ブームになったことがありました。「サクリファイス」が公開された後ぐらいだったかな。そのときに多くの書籍も出たりしたので、分析的批評はもしかしたら出尽くしているかもしれません。あのブームはまだ若造だった自分にとっては「けっ」っていう状況だったので(←青すぎるね)一般的な分析やタルコフスキーについての詳細はほとんど何も知りません。
ですので野暮を覚悟してこの映画のいくつかの見方の内のふたつの見方を元にちょっと何かを考えてみようと思います。

まずはシンボルとメタファーを中心に据えますと、さんざん言われているように「ゾーン」は明らかに放射能(とオカルト)に満ちた場所であり、最短距離を進めずにホットスポットを避けて練り歩くゾーン地帯前半の描写などはあまりにもあからさまです。
で、タルコフスキーと言えば水。水と言えば鏡。鏡と言えば水死体。死体と言えば偏在。偏在と言えば時空を超えた誕・生・死の同時存在。トンネルの胎内旅行はそのまま娘の内宇宙への進入。外宇宙を内包する内宇宙と言えば意識-無意識-イド、などという連想も発現します。と、すれば最終的に出てくるキーワードは「夢」でありシュルレアリスムであるとも言えたりします。
・・・こういった連想で哲学的思考に溺れるのも楽しみの一つですね。まあ、こっち方面はいろんな人がいろいろと語っていることでしょう。

意外に注目されない(のかされているのか知らないけど)のは、そのまま素直に寓話あるいはSF映画として見た場合のストレート感想かもしれません。
素直に見ると「ゾーン」は宇宙人とか神とかそういった上位存在が人間を試すために用意した特別な場所ということが想像できます。そしてストーカーはゾーンを作った側の存在で、ゾーンを作ったエリートたちよりは遙かに下層に位置する連中です。SF的には宇宙の上位種族の下層階級、寓話的には神に使命を与えられた天使というわけですね。
主人公のストーカーの暮らしぶり、仕事を厭がっていること、そしてまた彼のピュアな心を見ればそれがわかります。彼は多くの人間をゾーンに案内しましたが理想的な結末を迎えたことがないのです。だから人間に絶望しています。そして奥さんももちろん同族です。ラスト近くの奥さんの台詞をよく聞けばわかります。
こういう見方を中心に据えると、なんとも哀しい直球SF映画であるとわかります。

と、まあ戯言ですがこれ以外にも色んな見方ができることでしょう。そういう意味で「奥が深いなあ」と思うわけです。一本の映画に多重のテーマが同時に存在するというのは、これは映画芸術として極めて優れていると言わずにはおれません。

今更タルコフスキーをべた褒めしたりすると、物事の表層を舐めることしか出来ない頭足らずのアンチ君が「けっ」とか言ったりして、そういうのが今時なのでありますが、名作を名作として崇拝して何が悪い。昔筒井先生も言ってました。「名作崇拝主義だなどと言うが当たり前である。どこの世界に駄作崇拝主義があるものか」みたいなことを書いておられましたね。

というわけでごちゃごちゃ書きましたが、久しぶりに「ストーカー」を観て、実は脳味噌空っぽになって「すごいなあ、すごいなあ」と、映画部でのたくっていただけなのであります。

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