がんばれ、リアム

Liam
2000年の英国映画「がんばれ、リアム」は如何にして庶民が差別主義者のナショナリストに堕ちていくかを不穏な不況社会の日常の中から描き出した作品で、この映画について数年前に語り倒したかったのですが今頃ちょっとだけ触れておきます。
がんばれ、リアム

1930年代のリバプールが舞台ですか。文化的だった社会が緩やかに不況に突き進み不穏がもたげ、パパがだんだんと差別主義者のナショナリストに変容していく様を描きます。

この映画を初めて見たのは5、6年くらい前だったかな、不況になっていく様、楽しい家族だったのに崩れていく様、父ちゃんが次第にナショナリズムに傾倒していく様を見ながら「安倍政権下のネトウヨ発生物語として優れた教科書である」と、いろいろ長文で書き殴った下書きがありました。

フロムの「自由からの逃走」でも研究され尽くされた通り、庶民はこうしてアホになり排外主義者となりファシズムに溺れる従う人になるというそのままを描いた映画で、そういうのをリアム少年の目から描いたりしますから筆者の社会派ポイントをつんつん付いてくれるたいへん良い映画でした。

一度は逃げ出した安倍晋三とかいう男がまた総理大臣になって国民から富を吸い上げ企業に配布しますと宣言し、しかも自民党が原発事故の尻拭いを放棄してカミカゼ的洗脳一辺倒になったり、憲法破棄に等しい改憲草案を出した後でしたから長文の下書きも虚しいもので、今更ネトウヨ発生物語とこの映画を絡めても何も得ることなどなく、寧ろよい映画を貶めることにもなり兼ねないと、封印していました。

映画感想の更新を再開し始めたことだし、昨日は敗戦の日だったし、その手の映画の感想文を入れ込もうかと引っ張り出してきた「がんばれリアム」ですが、結局長文の下書きはコマンドAして削除、今こうしてまた書き直しております。

何年か前まではネトウヨと言えばナショナリストで右翼的なイメージでしたが現在ではそういうのは失われています。最早ウヨは右翼のウヨではなくただネットにウヨウヨいる情弱の馬鹿という意味のウヨです。右翼的な思想はすでにありません。傾向として寧ろ左翼的ですしね。いや、そもそも彼らにイデオロギーも思想もありません。多分思考能力もありません。だから「がんばれ、リアム」はナショナリスト、排外主義者発生物語としての現代日本の参考になりません。日本はもっと酷いところまで堕ちまくってしまっています。そう、もう手遅れなんです。

映画の細かいところは忘れました。全体的に時代を表現した雰囲気の良い映像だったことや、リアムの変な顔が印象に残っています。雑多な人たちも魅力的でした。ただ父親ひとりがどんどん馬鹿になっていく印象でしたね。不況で仕事を得られず「おれから仕事を奪ったのは外国人だ」と攻撃を露わにしていきます。こまったちゃんですね。映画としてはしっかり良作で、見終えたときの良い印象は記憶に残ってます。

全体主義者を表現した教科書的な映画と言えばぱっと思いつくのはやはりベルトルッチ監督の「暗殺の森」です。あれはまあ見事に精神分析の教科書から抜き出したような絵に描いたようなファシスト精神分析物語でした。

あれにくらべたら「がんばれ、リアム」の父ちゃんはイデオロギーや思想ではなくただ不況と不安から排外主義に逃避する一般右翼です。カジュアルファシストですね、国民が全体主義に溺れるとき、やはりこのカジュアルファシストが増殖していくという現象が問題となります。ひとりひとりは大したタマではなく、全体的に何となく排外主義が横行し油断しているうちに国中を覆い尽くすことになります。

日本は今現在壊滅的な状態で、危機感なんぞというレベルはとっくに過ぎています。マスコミの政府広報異常報道も戦時中と同等かそれ以下ですしちょっと想像を絶する状況ですがそれを自覚できていないカジュアルファシストが多分過半数を占めてしまっています。初めて「がんばれ、リアム」を見て「よい教科書だ」と思ったほんの5年前が遠い過去のように思えてなりません。

細部を覚えていない映画感想にもなっていない感想文をこれ以上続けても意味ないのでそんなわけで気の迷いで「がんばれ、リアム」をご紹介しておきました。何度もいいますけど「がんばれ、リアム」は忘れてはならないと思える良い映画でしたので今からでも十分観る価値ありますよ。

 

 

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