演劇2

演劇2
青年団と平田オリザ氏を追った想田和弘監督観察映画第三弾「演劇1」と「演劇2」は二本合わせて6時間弱の大作。こちらは「演劇2」平田オリザ氏の動きを徹底的に追います。
演劇2

演劇1」の続きです。

「演劇2」では冒頭いきなり議員連中との会合シーン。そうです。「2」では平田オリザ氏が動きまくります。政治家と会い地方に出向き議員と会い準備し公演し営業し約束し講演し執筆し出版し教育します。
劇団の維持のため、睡眠や食事ですら最小限に駆けずり回るその姿はまるで鬼のようです。

芸術の中でも、関わる人数が多く大がかりな演劇です。個人色が強い他の芸術と違って、その運営には会社的というか団体の制約や経営という概念が必要になってきます。つまりまず存在し存続することを目的に金を引っ張ってこなければなりません。表現などはその次の話です。というか別次元の話です。

経営者の最も重要な仕事は他の職業と同じく営業です。芸術に関する職業の営業には、商材はもちろん前提として、実績とタレント性が必要す。平田氏はこれを最大限に利用します。

自分も含めて、芸術方面あるいは物作りの自営業零細企業などの親分を見てみますと、程度の差こそあれ、皆同じタイプです。しかしの程度の差というのが重要です。寝食を忘れるほど動き回り、周りを蹴散らしてでも実績を語り、自分を印象づけます。周囲に協力させ、子分をこき使い、作品作りから経理まで自分でこなします。「ここまでやらないと食ってなどいけないのだ」と誰しもが感じるでしょう。
このことは芸術を生業としている、あるいはしようとしている者にとって絶望と映るかもしれません。

話は急に飛びますが、私は公務員が好きなんです。嫉妬とやっかみと全体主義国家ならではの排他性のために巷では末端公務員を攻撃して喜び合うという気色悪い遊びが流行していますが、私は職業柄、公務員、とりわけ地方の役所の方と会うことが多く、大抵ものすごくいい人で仲良くなります。
芸術や美術に関する知見をお持ちで、それを形にしていく実行力がある方も多くおられます。金儲けが目的の民間には決してできない芸術への投資を実現するのはこうした人々の努力によるものです。
あるいはビジネス的な展開が望めない地方の場合、必ず視線が文化・芸術へ向かいます。何となく未だに、文化・芸術が金儲けのビジネスより上位にあるという認識が生きています。上位かどうかはともかく、下位でも無駄でも不必要でもないのは確かです。
そして地方に優れた文化施設ができたり、演劇の舞台が出来上がったりします。これが文化国家を下支えする重要な地方の役割です。

平田オリザ氏が鳥取に行くエピソードが登場します。オリザ氏は鳥取で実現した演劇際を褒めます。地元の市議に対する発言を見て、最初「よいしょしてるのかな」と思われる人もいるかもしれません。しかしそうではありません。こうした試みを実践してくれる地方にこそ光明を見いだしているのだと思います。
平田氏が例に出したフランスの芸術祭もそうだし、カンヌの映画祭や、どこだっけかな、実験音楽の殿堂とまで成長した音楽祭など、ほとんどすべて田舎の小さな街が町興しで始めたイベントが大きく育ったものばかりです。
文化・芸術を育てるのは地方の熱意であり、それに協力する芸術家、それを支持する市民です。
私もそうした仕事にいくつか携わっています。その経験上はっきりわかるのは、かならず誰か個人の熱意によってスタートし実現するという事実です。決して、会議や漠然とした目的からは生まれるわけではありません。大抵は役所の責任ある立場の誰かが熱意を持って強く推し進めることが原動力になります。何人客が入るから芸術を導入しようなどという不純な目的ではなく、純粋ピュアに担当の知見と熱意が決め手となり実現に向かいます。私はこうした純粋さと熱意が大好きだし、それを前面に打ち出す人達はやはり公的な立場の人に多いのです。営利目的ではなかなかこうしたわがままを通すのは難しいものなのです。※1

※1 勢い上自分のことを書いたので、地方の役所の方の尽力で実現したふたつの壁画の事例をリンクしておきます。
木曽へようこそ →松本零士壁画プロジェクト

何だかあらぬ方向に話が向いてしまいましたが気にせず続けます。

「演劇2」のエピソードでもうひとつ特筆すべきは、メンタルヘルス関係の会議で講演をするオリザ氏の言葉です。

この講演は、すべての官僚と政治家、すべての市民に聞いてほしい内容です。社会にとって芸術とは何かという端的な説明になります。

私が常々言っているエコロジーの観点からの芸術という言い方があります。
エコロジーというのは生態学のことですから、そのすぐれたシステムを現代社会に応用しようとするのがエコロジカルな発想です。で、エコロジーの何を現代社会に応用するのがより優れた社会への道なのでしょうか。例えば弱肉強食なんてのもエコロジーのひとつと言われていますが、そうした既出の概念では発見も何もありません(そもそも弱肉強食などというものは自然界にありません)
最も注目すべきは自然界の無駄についてです。自然の世界には、どう見ても無駄な生き物や無駄な生態というものがあります。これまで一面的な思想ではそれら無駄なものを「無駄」とか「無意味」とか言って片付けてきました。しかしエコロジカルな発想で解明していくと、自然界に存在する無駄や無意味や、あるいは偶然などといった複雑なものには、そもそも無駄であること自体に大きな存在価値があるということがわかってきています。例えば食物連鎖に関係していない馬鹿みたいな小さな種がいます。なんの役にも立ってないしどう見ても無駄なやつらですが、食物連鎖に関わっているある種が絶滅した場合に、その代替となったりします。もしその無駄な種がいなかった場合、食物連鎖の一員の一種が絶滅した場合、連鎖的にすべてが絶滅するわけです。その大絶滅を防ぐものこそ、無駄で役立たずの種だったというわけです。
という、無駄で無意味で役立たずのなんと役に立つことかという単なる一例ですが、つまりエコロジー的発想でものを考えると、無駄なものは無駄が故に絶対に必要なものであるという結論に達します。
逆に、無駄を排除し、一面的な合理化だけを推し進めるということは即ち代替を用意せず、余裕のない、ちょっとした原因ひとつですべてが滅んでしまう危険をともなう、反エコロジー的な発想であるということもおわかりと思います。

人間の社会や精神を考えるとき、この無駄な種に該当するものこそ、休息や夢想、煙草やお酒、芸術や文化です。これらは何かの代替になるというレベルどころか、人間に必要な最重要な要素の一つです。
反エコロジー的発想すなわち合理性やコストといった単純な物差しで測ると無駄で無意味なものですが、これらを排除した社会は立ちゆかなくなり、これらを排除した精神活動は文明人とは言えない荒廃したものとなります。

そこでやっとオリザ氏に戻りますが、彼は端的に予防医学との絡みで芸術を語ります。
現代病と言っていい都市型の鬱病や精神の病、これらの予防として最も有用なものこそ芸術であると論を張ります。当然正しいです。私ならこれに煙草も加えますが。それはいいとして、ここまでは我々が何十年も前から語っていることです。もっとも、誰も聞いちゃいませんでしたが。
ここからがオリザ氏のかっこいいところです。
だからして、例えば健康保険制度があるように、芸術保険があってもいいんじゃないかと。人権があり、豊かで文化的な生活を送ることは憲法が保障しています。文化的な生活とは何か、文化的な生活を保障するために国ができることはなにか、こうしたことを考えていくと、当然文化・芸術に対する公共の福祉という概念から、それらに対する補償という話にもなってきます。
文化・芸術保険制度ってのがあれば、制作の補助もできるし、市民も安価に芸術に触れる機会が増えます。その結果よりすぐれた芸術作品が生まれ、世界で評価され、結果的にまわりまわって経済的な恩恵をもたらし、文化国家として尊敬されることにも繋がります。

制度こそ違いますが、フランスやイタリアがやっていることです。映画に関しては韓国もやっています。国を挙げて映画や文化を推し進めています。その結果優れた作品が生まれ世界で評価されています。イタリアでは新築の大きな建築には総工費の何パーセントかの美術装飾を施すことを義務づけていたりするそうです。
はっきり言って、制度なしに自力だけで勝負させて芸術が育つわけがありません。

どこぞの独裁者もどきの小泉パロディみたいな大阪市長がおりますが、奴などはオーケストラの予算を削り、文楽その他古典芸能の予算を削り、文化・芸術撲滅運動の急先鋒として暗躍しております。
補助金などというとすぐに一部の愚か者が文句を言ってしゃしゃり出てきますが、どういう部分に政府が金を突っ込むかということが即ち「国のあり方」を決定させるのでして、例えば日本の場合は、造船、鉄鋼、そしてその後自動車、家電と、そういう方向で金をつぎ込んで業界を育て守ってきました。文化・芸術には興味がありませんでした。
これからは文化・芸術方面にも、自動車や家電のように制度が金をつぎ込んでもいいじゃないかということを私なんかは強く思うわけです。
— あ、ここでいつものあれが出てきそうですが長くなるので割愛します。それは「美藝公」ですが、まあいいですね今回は —
文化への補助金なんぞ、あの糞間抜けなエコ・ポイントや、テレビ電波切り替えにつぎ込んだ莫大な金額に比べたら屁にもなりません。

そんなわけで精力的に動きまくる平田オリザ氏を見ながら、ある種の人々はこう思ったかもしれません。
「青年団ほどの実力と実績がある劇団を維持するために、同じく実績と才能の平田氏がここまで動き回らないとやっていけないという現実を突きつけられた。もうだめだ」

確かにもう駄目かも判りません。特に怠け者の私なんかは、食にも卑しいし好きな映画も観たいしとか、そういう、サボることが大好きですので、平田オリザ氏の24時間を考えると生きる価値なしとか思ってしまいます。昔はあのように24時間動いていたこともありましたので、今それが出来ていないもどかしさに包まれます。
日本の制度への絶望と同じくらい自分自身にも絶望です。

でもまあそんなこと言ってられないので、「演劇2」では絶望もありますが力づけられた部分もあります。
芸術保険の実現をめざしてがんばりましょう←違

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