バジュランギおじさんと、小さな迷子

Bajrangi Bhaijaan
インドで迷子になったパキスタンのちびっ子に出会って面倒を見る羽目になった純粋男がその子を親の元へ届けようとする映画「バジュランギおじさんと、小さな迷子」の感想文をなぜ今書くか。もちろん、この映画がインドとパキスタンに関するハートフル映画だからです。
バジュランギおじさんと、小さな迷子

敵対国家と日本の隣国差別

昨今、総天然全体主義かつ国家社会主義でアンチ知性派の隷属愚鈍国民と、戦前以下に落ちぶれ果てジャーナリズムどころか倫理すら失い腐臭漂うマスコミと、ひとりで百人分わめき散らすネットヘイターの言説、そして無学かつ思考能力と基本道徳が欠落した権力者たちによる指導により隣国への差別とヘイトに満ちた悪徳の空気が我が国を覆い始めています。だからこそこの映画を取り上げます。

インドとパキスタンの対立は対立であって、日本と韓国の問題とは決定的に異なっています。嫌っているかもしれないがそこに差別はあまり介在していないように見受けられます。日本の腐った差別意識は、例えるならクルド人に対するトルコみたいなほうが近いですが、それはそれとして、今日は「バジュランギおじさんと、小さな迷子」の映画の話です。

ということでインドとパキスタンは敵対しており、仲の悪い隣国同士、お互いがお互いを知りもしないのに畏れたり憎んだりしている状況です。その状況下で、パキスタン人の迷子をインド人が見つけて世話を焼き、決意してパキスタンの親元へ届けてやろうじゃねえのと奮闘する「バジュランギおじさんと、小さな迷子」です。

もちろん、予想の通りハートフルでいい話になります。敵対しているパキスタン人とインド人がふれあい通じ合う泣けてくるほど心がハートになるベタベタの話です。国は違えど同じ人間。国境の差より個人差よ。そういう感動話で嘘くささにも満ちていますし理想的な人間たちがこれでもかと登場します。そしてもちろんそれでいいんです。というかそれが目的。それがメッセージ、それがこの映画のテーマです。

嘘くさいくらいに良い人が出てくる話について「家へ帰ろう」で書いたばっかりですね。そういうことです。

コミカル

とはいえ映画としてただの感動話ただの嘘くさい良い人話では簡単に食いつきません。そこに映画として優れた技術があってこそ。この映画にはもちろんそれがあります。

まず第一にこの映画は基本コミカルです。コミカルであることはあらゆる嘘くささを霧消し、風刺の効き目を上げます。というか風刺即ち笑いです。昔、権力者に楯突けば殺されたような頃、庶民が持つ武器は風刺であり笑いでありました。

ということで「バジュランギおじさんと、小さな迷子」、序盤は迷子になる過程で相当にドキドキさせた後、バジュランギ登場で一気に明るい世界へと持っていきます。そこからはバジュランギの面白さでぐいぐい引っ張り、迷子の可哀想感が笑いによって次のレベルに達します。

ファンタジー

風刺と笑いはファンタジーへと昇華します。それは寓話です。リアリティを追求する技法で冒頭の迷子シーンを作ったら、もうその後は何があっても楽しく映画を見続けることは困難です。でもバジュランギ編に移って一気にファンタジー世界に突入、寓話としての迷子と世話するお兄さんの話にすっと持っていきますね。エンタメ技術の粋を集めてこのような展開を果たします。もちろん歌と踊りがセットになっておりますな。

そうそう、邦題はおじさんと言っていますがバジュランギはお兄さんですよ。結婚前の青年です。

でも演じているサルマン・カーンは1965年生まれの立派なおじさんです。役者はおじさんですが青年であるという、凄いす。

純粋お兄さんについて

さて私はインドの映画をほとんど知りません。人は得てして知らないことに限って知ったような気になります。なぜなら、詳しく知ってしまうと知らないことが無限にあることを知ってしまい何事も決めつけることができなくなるからです。

今日のテーマに沿って例えると、そうですね、ある屑が「中国人はこうこう、こうである」と、何やら知ったような否定的な見解を述べていました。その低知能なツイートを見て一瞬目眩が起きます。中国については私も何も知りませんが、その歴史、国土、民族の規模を思うとき何を以て中国人などという括りでものを言えるのか、その想像力のあまりの貧困さに倒れそうになります。

人の悪口を言いながら同じ穴の狢であるMovieboo筆者が何を書きたかったかというと、インドの大ヒット映画には純粋お兄さんという存在が不可欠であり特徴であると言い切ろうとしたんですねこれが。

バジュランギのキャラは特殊です。お兄さんですが純粋ピュアです。どれくらい純粋ピュアかというと、ゲリラに協力してもらってトンネルを抜けてパキスタンに密入国したら兵隊に見つかって「どこから来た」と訊かれて「トンネルから来ました」と答えるくらい純粋ピュアでもっと言えばアホすれすれです。

この純粋ピュアは極端の針が振り切れているレベルです。こんなやつ現実にはいないし、もしいたら完全にイッちゃってるやつですね、でも寓話でファンタジーでコミカルなこの映画ではまったく問題のない寧ろ素晴らしいキャラです。

純粋お兄さんをもう少し紐解きましょう。何よりもまず、この純粋さは純粋な道徳から出来ています。パキスタンとインドが対立関係?そんなこと知ったことではありません。社会のお約束?知りません。人としての根源的な優しさが最重要です。彼は誰でしょう。こうしたピュア設定の答えは「こども」です。

社会の何にも影響を受けておらず、愛のみで育ち道徳しか知らぬこどもの心というやつですね、それを持ったまま大人になった純粋ピュアなお兄さんという設定です。彼のピュアは世界を作る根源の思想であり、人が失ってはならぬ根っこの部分です。実は古くからの宗教で説いているそのままの設定だったりするわけですね。

このピュア設定のお兄さん、インドの大ヒット映画に必ずいます。「ムトゥ」も「きっと、うまくいく」も「PK」も主人公はまったく同じこのタイプでした。

ということで「ムトゥ」と「きっと、うまくいく」と「PK」しか知らないくせに知ったようなことを言う例として挙げたかっただけという、やっとそこに帰結しました。お疲れ様でした。

ストーリーテリング

もうインドのこの手のヒット映画のストーリーテリングやエンタメ性についてぐだぐだいうことはありません。もう見事としか言えません。大量のシークエンスがあり、それぞれ面白いやつがいて、面白いことが起きたりハッとしたりじーんとしたり完全に手玉に取られます。

この映画はプロットに技術の粋を懲らすようなタイプではなくて、序盤にバジュランギの過去を語るシーンはちょっと技巧派の特徴ありましたがそのあとは素直に物語が流れ、一瞬たりとも飽きることなく物語にのめり込めます。

さすがに最後の最後、感動のシーンは個人的にはくどくてちょっとやりすぎやなーと醒めてしまいましたが、まあいいかなと思います。醒めてしまうことより人の心が国境を越える感動の強さが大きいですしね。

まあ何しろバジュランギのキャラいいし、世話になる一家もいいし、ちびっ子も壮絶可愛らしいし、パキスタンのいろんな人たちもテレビレポーターも魅力溢れて、なんというか贅沢な映画でした。

敵対している国のハートフルストーリー

ということで、インドとパキスタンみたいな敵対国同士の人と人とのハートフル物語、いくつか記憶に残っている映画があります。

さっき例に挙げた「PK」でも重要なシーンでパキスタンとインドのネタを持ってきましたね。大使館のシーンですよ。あの超絶嘘くさいシーンで感動に打ち震えました。

エジプトとイスラエルをテーマにした「迷子の警察音楽隊」も忘れられません。こちらは言葉すら通じません。迷子になった音楽隊に一夜の宿を提供するお話でした。これ日本の観客に大層受けたんですよね。この映画も素晴らしかったですね。

敵対ではなく差別ですが、クルド人のこどもを老人が世話する「少女ヘジャル」も少し似たテイストですか。

と、こうやって思い出しながら例に挙げているだけで何だか心が浄化されてきているのを感じます。国と国をまたがる人の物語って効果絶大ですね。映画はただ見ていて楽しい娯楽ではありますが、それだけじゃなくやっぱり何かいいものですよ。他人の人生を仮想的に体験することにより、少しは想像力が増すような気がします。

と、何やら良い人ふうなことを書きすぎたので最後にメッセージを。巷に溢れるブログふうに「まとめ」と言ったりして

まとめ

とりあえず低知能にあぐらをかいて韓国ヘイトしているような屑は「バジュランギおじさんと、小さな迷子」でも観て心洗われやがれ。

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