グッドナイト・マミー

Ich seh ich seh
郊外の大きな家に暮らす母親と双子の息子。母親は手術後のようで包帯ぐるぐる巻き、双子は外でよく遊び、家では厳しくしつけられておりまして・・・。包帯ママと双子たちのソリッド・シチュエーション・ニュータイプ・アート系・家庭内ホラー・スリラー。とことん恐ろしいです。
グッドナイト・マミー

なんですかこれ。なんですかこれ。ノーチェックでしたが随分面白そうなこういう映画がありました。

これはあれです。ほとんどホラーです。サイコスリラー系と言っていいと思います。そしてストーリーの紡ぎ方や映像の感じは、さすがオーストリア芸術の国、なんだか芸術的で、そこいらのホラースリラーの雰囲気をちょっぴり逸脱していて、結構いいです。
そしてこの映画は怖いです。恐ろしいんです。息を飲むドキドキ、目をそらしてしまうほどのホラー力も持っています。ほらね。ホラーってジャンルは本当に自由の翼をもっております。ありとあらゆる芸術表現への攻撃、新しい表現へのチャレンジ、そういったものはまずホラーに宿ります。

少々観客を突き放す演出で、情緒的なものを排除します。モダンクールなニュータイプに若干近い作風、さらに「描かない部分」の深みを上手に演出に結び付けています。親切丁寧に説明し尽くす映画ではありません。観る者の想像が広がり実際の映画の尺以上の物語を感じさせるタイプの、つまりお得な一品となっています。
「描かない部分」に関しては「マジカル・ガール」とは違って想像でストーリーを補完するというより、バックグラウンドを妄想させるやり口です。「じつはこうなのではないか」と妄想を促します。その妄想が正解かどうかはまったくわかりません。完全に妄想に取り憑かれます。これに関しては後ほど。

もうひとつ、普通のスリラー映画を手玉に取っている節があります。
一見するとこの映画は普通のスリラーのストーリーです。「実はこうであった」という、どんでん返し系のネタも仕込んであります。ですがその仕込み方が独特です。私はこれにとても感心しました。観る人によっては独特であるとまったく感じず、普通に受け入れるでしょう。またあるいは、こうした技法を「アート気取りで嫌味だな」と感じる人もいるかもしれません。これに関しては後ほど。

さてちょっとだけお話をご紹介します。

郊外の大きなお家に住む双子と母のお話です。双子はちょっとやんちゃな年頃のルーカスとエアリスです。演じているのもルーカスとエアリスという双子ですね。この双子が近所で遊んでいます。自然がいっぱいの良い環境ですね。美しい映像です。少々怖くも感じます。

家はモダンでゴージャス。ホラーにありがちな古風な家ではありません。内装も家具もポスターもとってもお洒落、別荘なんですか。大金持ちですか。てな感じです。
母親は顔に包帯を巻いています。包帯を巻いた顔から目だけが覗いていて、そういえば英題・邦題の「マミー」はママ(Mommy)とミイラ(Mummy)を掛けてるんでしょうかね。原題は「Ich seh ich seh」となっていて、よく分かりませんが「私は見る」とかそういう感じ?

双子はママに不信感を持っています。以前のママと違う、別人じゃないかと疑っています。

と、そういう設定でストーリーが進みますがこれ以上説明のしようがありませんね。ストーリーはとても簡素です。

ストーリーの秘密について

スリラーには意外なオチとか、暴かれる真相とか、そういったものがよくあります。この映画にもあります。「ママは偽物なのか」についての答え以外のもう一つのネタですね。でもこの映画にとってそのネタは重要ではありません。いえ、重要ですが重要でなく演出します。普通の映画ならこのネタをオチの近くに持ってくるかもしれませんね。大袈裟に描くかもしれません。でもこの映画では当たり前のようにすーっと描きます。下手すればすでに冒頭シーンである程度ネタを明かしています。普通ならみんなを驚かそうとするネタですが「ありがち」なネタでもあります。そういうのもあってか、この映画ではもったいぶらずに通過させます。ここがとてもスマート、なおかつ独特の部分です。

そのネタを簡単に通過させ、ママのネタも簡単に通過させます。あまりにもあっけなく通過させるのでストーリー的な起伏がなくなってしまいます。一般のスリラー映画的な楽しみを破棄するに等しいのです。起伏はないけど行動はあります。残されたのは何でしょう。恐怖と悲哀です。

オーストリアの偉大な監督と言えば思いつく人がいますね。かの方の初期作品に通じるものを感じます。ストーリーをそぎ落とし、一般的なジャンル映画の批判的技法を用いて淡々と事象を描きます。
何でもかんでもこの方の名を出す風潮に抵抗があるので名を伏せていますが、その巨匠から継承している部分を少し感じることができたのは事実です。

膨らむ妄想について

ほとんどの設定やバックグラウンドの物語を省略していて描きません。少しのヒントから観客は「実はこうであった」の部分を妄想します。
映画を見終わり、はぁはぁぜぃぜぃ苦しみながら、やっぱり膨らむ妄想を止められません。この妄想は完全に自由です。映画のストーリーに影響しません。過去に何があったかということも含めた設定に関する妄想です。

まっとうに解釈すると、映画の設定とストーリーがすべて結びつきます。結びつきますが、果たしてそんな単純なものなのかと疑問が沸くのですよ。そこで別の考えがもたげてきます。ストーリー的に綺麗に収まってしまう解釈なんてのは断片のヒントを都合良く全部くっつけて「すべての秘密が分かった」と思い込むオカルティストと同じなのではないかと。
事故はいつあった?どのような事故だった?それはいつ起きた?わかりません。
ママの包帯と事故が関係してるなんて誰も言っていません。勝手に想像して繋げていたけど、これもしかして無関係なのではないか。
包帯と事故が関連してると考えれば物語的に美しくまとまります。しかしまったく関係ない事象であるかもしれないのです。現実世界では複数の事象が全部絡み合っているなどということは滅多にありません。それぞれの事象は日常の中の単なる断片です。スリラー映画では映画内世界の事象を関連で埋め尽くします。この映画はそういう部分をちくりちくりと突いているかのように思わせてくれます。

「虚人たち」という小説では、一つの虚構にまったく無関係な事件が二重に起きることを実験的に描いていました。これを思い出しました。

「グッドナイト・マミー」に登場する事象へのヒントの断片を組み立てて綺麗にまとまったストーリーを想像するのは楽しいことなのですが、綺麗にまとめる必要がないと思うと、ほんとうにただの断片であって、無理に繋げる必要などないし、無理に繋げなくてもまったく問題がないということに思い当たります。
これはとても斬新です。そしてこの解釈もまた単なる妄想の一つに過ぎません。こうして、この映画は観客の自由な空想のために隙を与えます。一つ確実なことは、空想の自由を何も阻害しないという点です。

お茶目

ラストシーンの微笑ましさについてですが、他の例に漏れず、モダンクールなニュータイプ映画ではギャグとも恐怖とも悲哀ともどうとでも取れる不可思議なシーンが入り込みます。ラストシーンのほのぼのとしたシーンで、私の中では「ほら。この映画もニュータイプ」とわけのわからない結論を下したのであります。
糞真面目で恐怖に満ちたこの映画のラストシーンは何とも洒落ていますし奇妙だし茶化しているようなお茶目なようなそんなラストでした。

ヴェロニカ・フランツ

全体を見終えて、一見単純そうなサイコホラーですが引っかかるところが多すぎ、個性的なところがありすぎて、これはどうしたことか、この映画作った奴誰だ誰だと思ったらですね、監督・脚本のヴェロニカ・フランツは「ドッグ・デイズ」や「パラダイス 愛・神・希望」三部作の共同脚本家でウルリヒ・ザイドル監督の妻でしたよ。なんてこったい。「パラダイス」三部作は観ていないのですが、かなり癖のある映画のようです。ははーん。と少し思いました。というか観たいすね、これ、凄そうですね、パラダイス。生きるのが厭になりそうですか。

ちょっと本編の楽しみとは別のところでぐだぐだ書きましたが、本編の恐怖についてはホラーとして完璧、サイコスリラーとして最高、すごくいいです。本来ならこれについてだけ感想書けば済むはずですがちょっと脱線部分についてだけ書いてしまいました。変わった点が多いのも事実ですが、普通に楽しめるスリラーでもあります。なのであまり大きくは誤解されませんように。
あ、それからわざわざ書きませんでしたが映像の美しさ、景色の素晴らしさもたっぷりご堪能。

でもパラダイスの予告編も貼っておいたりして。

[広告]

コメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です