スクールズ・アウト

L'heure De La Sortie
公開年:
2018
製作国:
監督:
出演:
一風変わった学園もの映画「スクールズ・アウト」は何を描こうとしたのか
スクールズ・アウト

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何が一風変わった学園もの映画かと申しますと、この映画はジャンル映画の括りで収まりきれないお話を扱っているからです。ジャンル映画ではないとも言えますが、監督本人がインタビューで次のようなことを語っています。「これはフランス映画では珍しいジャンル映画なのです。だから一風変わっています」

なんとフランス映画ではジャンル映画そのものが少なく珍しいので自分が作ったジャンル映画はちょっと変わってるけど面白いから見てねと言ってるんです。

私の感覚ではこの映画はジャンル映画に括りにくいからちょっと変わってるけど面白いよとなっております。同じことを指しているのに認識が真逆。この世界とあちらの世界くらい違います。

何を描いたか

けっこうこれ予想外の映画です。学園もので、優等生たちが生意気です。すべてを知ったような態度で、何かを企んでいます。恐ろしい子供たちでしょうか。

ここからジャンル映画として予想できるお話ってあると思います。たとえば子供たちが恐ろしい事件を起こすとか、子供たちを恐れるあまり教師が狂ってシリアルキラーになるとか、実は悪霊の呪いで操られていたとか、覚醒(笑)するとか、他の教師たちも悪者であったとか、宇宙人に侵略されていたとか、夢だったとか実は死んでいたとか。

でもそういうことではまったくありませんでした。この映画で描いたのは割と予想を裏切る事柄です。それが何か今ここで書くのは避けますが、至って真面目なものであったとだけ言っときます。

演出

序盤のナチュラルな演出がとても良いです。まさにフランス映画っぽい。自然な感じで、セリフも芝居芝居していないし、学園ものでこうした演出の映画をこれまでも観てきました。監督はジャンル映画と言いますが、この演出を見てその通りだなと思う人はあまりいないと思います。こういう感じが好きなので「このまま何も起こらずこんな調子で物語が進めばいいなあ」と思っていました。

物語が進むとホラー演出やスリラー演出がちらりほらりと見受けられます。結局、自然に始まりホラーやスリラーの味付けを加えて進行つつも、ジャンル映画臭い極端な展開にはなりませんでした。

目指したものと現実

この映画はわりと大きなものを描こうとしています。監督が目論んだ映画の出来栄えと実際の出来栄えに乖離があるとか、そういうことは申しません(申してるも同然やな)

好感高い映画ですけど、惜しいなと思うところも多いです。惜しいなとは思うけど好感高いです。監督が目指したものを大いに支持しますし、細かな指摘をし始めると高度な技術的な話になるので避けます。

コーラス

映画中、とても変わったシーンが二ヶ所あります。同じものを描きます。それはコーラスです。子供たちがコーラスの練習をするシーンと、発表するシーンです。この歌のシーンの尺が長いんです。しっかり歌を聴かせます。このシーンはどういうことでしょう。

劇中では無表情で人を見下しこっそり何かを企んでいる子供たちが、コーラスの最中だけは素直な子供たちの顔になります。歌で何かを発散できている感じで、悪者に見えるかもしれないこの子たちの素直な部分が示されます。このシーンは当然そういうことを表現しているのだと思います。でも尺が妙に長い上に、歌ってる歌もパティ・スミスなんです。変すぎます。

そこで妄想探偵Movieboo筆者はこう考えました。

コーラスシーン撮影のために本当に子供たちは一所懸命練習したのである。カットごとにセリフを言う演技とはまた違った能力を要する歌の練習に子供たちもほんと頑張った。監督もそれを見ていて「よくがんばった。こんなにがんばったのに一瞬だけの採用では報われない。よし、たっぷり歌のシーンを採用しようじゃないか」

リアリズム系のフランス映画らしく始まり、ホラーやスリラーの要素が出てきて、子供たちの内緒の企みに教師の精神も追いつめられていきます。そういう重い空気の中、尺が異常に長い変なコーラスシーンは息抜きにもなりますが、息を抜きすぎて緊張感が途切れます。「この映画、そういうつもりで見てええのか?」とちょっとなります。でもこれは監督の優しさの現れであると納得すると、これはこれで好感度上がります。

ここからネタバレ

さてこれ以降は豪快なネタバレを行いますのでご注意ください。この映画の好感度について何かいうとき、ネタバレなしでは何も書けません。

畳むことを覚えましたので畳んでおきます。

監督はインタビューでこう言いました。「私は数年間、日本の人のことを考え続けていました」あるいはこうも言いました。「その映像を使うことについて非常に悩み、結論を出しました」

怖い子供たちの映画と思わせておいて、この映画の正体は原発事故でした。

映画の序盤から、原発や電線、不安定な電気供給というものが描かれ続けていましたね。ゴキブリや鹿、精神不安定な人、そういうネタは世の終わりを察知する者の異常行動として描かれます。

子供たちの秘密のライブラリは環境問題、紛争、災害、原発事故の映像でした。彼らは思春期になって初めて世界が狂っていることを知ります。子供ってのは世界は優れていて大人は賢いと思い込んでいますから、年ごろになって現実を知ると気も狂わんばかりに絶望しますし、世を動かしている大人を「アホでクズで悪人ばかり」と理解して反抗心も芽生えます。世を憂い絶望する彼らは過激な環境保護運動やテロリストすれすれの市民運動家になろうとしているのでしょうか。それも違いました。彼らの絶望は攻撃の方向に向かなかったんですね。

ここで攻撃的になるということは、まず絶望がさほど深刻でなく攻撃的運動で世直しができると信じているということになります。暴力を肯定することにもなります。賢い彼らはそうなりませんでした。映画を見ていたら唐突に行動を起こすので「あほちゃうのんこいつら」と思うかもしれませんが(ちょっと思ったらしい)そういうことではなく、彼らの目論見が絶望以外の何ものでもないということを示すシナリオであったとわかるわけです。

映画全体の中では中心の物語であったはずのこの子供たちの企みそのものが大きな出来事の中でのほんのわずかな要素に過ぎなかったという意味的どんでん返しがあります。この効果が目指したであろうお手本というか、同じ効果を感じた映画があります。「12モンキーズ」です。「12モンキーズ」のブラッド・ピットが演じたグループは映画の中で何かすごいことを企んでいる環境テロリストみたいに描かれ、いったい何をしでかすんだと思っていたら・・・。という、あれです。彼らがやったことが映像で流れ、感動に包まれましたね。

あれほどのオチが待っているということはありませんが、映画内の立ち位置という意味で似ています。

子供たちの絶望は大人の絶望でもあります。

日本人は大半が狂人ですから意味がわからない人も多いのですが、日本は4機の原発が過酷事故を起こしてしまった国です。存続できていること自体が不可思議で、実質的にはすでに崩壊して滅んでいるといっていい現状ですが地獄というのはそこに居続けることで地獄意識が薄れ慣れてしまうという側面もあります。

「スクールズ・アウト」のオチは原発事故で、それは世の終わりと同等です。このラストシーンを見て「ふーん、原発が爆発したんか。それがどうかしたか。食べて応援」とか暢気に思うレベルの人間には到底理解できない絶望と、絶望からの解放というものを描きました。ここでは子供たちもただの子供たちになっています。想像する絶望が現実となり、それは恐怖の想像から開放されたことでもあります。

世を憂い絶望していた子供たちは一方では歌を歌うときには素直であり、最後のシーンでは「まあいろいろあったけど子供たちも立ち直れるよね」みたいな状況下で現実の絶望を目撃します。子供たちの不憫を感じるラストシーンでもありますね。

というような映画で、こう書くととても見ごたえのある良くできた映画に思えるかもしれませんが、実際にはそう描こうとした志は伝わるがそれがビシッとできていたかどうかはごにょごにょ。

監督は軽々しく見えて実際に軽々しいところと真面目な面や深刻さを理解する知性を両方同時に持っておられるような方に見えます。この映画の特徴とまったく同じ印象ですね。

映画製作を学ぶ絶好の教科書でもあるように思います。基礎でなく高等学級レベルです。あまりにも微妙なさじ加減、この映画をコンテクストに映画製作を論じ始めると高度で緻密な話が止まらなくなりそうですがもちろん書きません。

子供たちが歌い、コーラスの先生役の女優さんが悪のりしていたのが印象深いコーラスシーンですが、パティ・スミスの「Free Money」です。この曲の選択ってどうなの。と思いますが、それなりに真面目な理由で選んだと思いますので敢えて何も言いません。パティ・スミス懐かしいな。

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