私が、生きる肌

La piel que habito
ペドロ・アルモドバル監督・脚本の「私が、生きる肌」は、壮絶かつ荒唐無稽、 SFかホラーか猟奇か狂人か、と、変態性豊かな愛の映画。
私が、生きる肌

前作「抱擁のかけら」とは打って変わって特殊なシチュエーションによるぶっ飛び作品です。雑誌のグラビアのような、大人の夢の国のような、色彩と映像のいつものアルモドバルマジックを駆使してのおかしなおかしな愛の映画であります。

「いつものアルモドバルマジック」というのは、映像綺麗とか彩度高いとか台詞変とかそういうことだけじゃなく、「ぶっ飛び状況を納得させる力」であると私は決めつけて勝手にそう名付けております。

たとえばほら、「トーク・トゥ・ハー」のあの彼なんかにしても、普通に考えたらただのド変態の犯罪者なのに、映画を観ているとマジックにつつまれ、親友と共に愛に共感して涙したりするわけじゃないですか。「ボルベール」の事件性もそうだし、「抱擁のかけら」だってまあ同じようなもんです。現実だとすれば洒落にならない事柄を、アルモドバル映画マジックの力で超説得力を作り上げることができるのですね。リアリズムと対極にある技法です。アルモドバル作品の魅力について語られることは多いと思いますが、その魅力のことをアルモドバル・マジックなどとふざけて名付けするのはMovie Booならではの魅力です←呆

「私が、生きる肌」の設定はこれまた極端に非現実的です。まるでSFかホラーです。この話をリアリズムの技法で撮れば、かなりの工夫を凝らさなければ誰ひとり納得させることはできないでありましょう。否、かなりの工夫を凝らしたとしても全然無理です。どう無理かと言うと、この映画全部を包む目的やテーマやストーリーが、アルモドバルマジックを前提としなければ成り立たないからです。

難しい話になってまいりました。かみ砕いて説明しましょう。ネタバレに近くなるかもしれないので、未見の方はこの質問を飛ばしてQ12-Bに進んでください←違

アルモドバルのマジック

その前にお話ですが、ストーリーはこうです。気違い博士が人工皮膚の移植で死んだ嫁はんのそっくりさんを作って惚れちゃいます。

とまあそうした中にいろんな話が混ざり合ったりするわけですが、この物語の中で最も重要な部分は構成の中程に現れる気違い博士と人工皮膚女の愛のシーンとなります。

いろいろごちゃごちゃしたあげく、この二人の愛が映画館内を包み込みます。そして唐突に「6年前・・・」と、過去の経緯が明かされていくという構成に続きます。観客全員が博士と女の愛を疑いません。この疑いのなさが後ほど大きな効果を上げるのです。過去の経緯がすべて明かされた後でさえ「あの一瞬の愛は一瞬でも愛であった」と感じてしまうほどなのです。女中のおかんと女の語らいシーンなんかもその説得力に一役買ってます。とにかく、愛を信じることがこの作品の物語としての面白さを際立たせます。

さきほど「リアリズムの技法では成り立たない」と書いたのはこのことです。もしリアリズムの技法でこのストーリーを追えば、気違い博士と人工皮膚女の愛が成立しないからです。これは「トーク・トゥ・ハー」における看護師の愛と全く同じです。アルモドバル映画のマジックにかかるからこその納得であり、説得力であり、裏切りであり意外な展開なのであります。

楳図っぽい

そして気違い博士より気違いのMovieBoo執筆者は「私が、生きる肌」を見ながら「何という楳図っぽさ」と明確に感じていました。
そうなのです、このマジックと何が似ているって、楳図かずおマジックとそっくりなのであります。「何を言うとんねんこの気違い」と立ち去る前にまあお聞きください。

楳図かずおの漫画は無茶苦茶な展開を読者に納得させる力があるわけですが、それに一役買っているのはまさに楳図かずおの絵柄でありコマ送りであり台詞運びであり登場人物の動きであり、つまり漫画のすべてなのです。この楳図ワールドで起きる異常な状況は、楳図マジックにより正当化され説得力を持ちます。楳図マジック以外の他の技法では成立しないのです。これがアルモドバルマジックとの最初の共通点です。

さらに「私が、生きる肌」には楳図作品の中でも特に名作「洗礼」との大きな共通点があります。それはマジックが発動したからこその納得を、ストーリー展開の中で上手く裏切るという点です。前提を覆う仕掛けを、後になって最高のシチュエーションで突きつけるんですよ。
「私が、生きる肌」における愛です。それと肝心要の皮膚移植、フランケンシュタイン的人間創造などももちろんそうです。「洗礼」で言うと「脳味噌交換手術」がそれにあたります。「そんなアホなことがあるかいな」と誰にも言わせないのです。この納得というか前提をまず自然に受け入れさせて、それから最後のほうで上手く裏切るのです。この裏切りは納得の前提なしには得られない展開であり、納得の前提にはマジックが必要なのです。

このマジックに一番近い技法名はミステリーの叙述トリックです。受け手の前提を裏切るというところが似ています。でも違うのは、その前提を作り出すのが一般常識ではなく、作家の個性的な表現技法にある点です。

つまり何を言いたいかというと、ストーリー、設定と目的、表現技法がお互いに絡み合って映画が成立しているということです。ある種、映画の理想型なわけです。大袈裟に言うと、この物語を包む世界と宇宙の創造に成功していると言えましょう。してみるとこれはやはりSFであると断言できます。

だんだん論調が発狂しすぎてきたようなのでここらで勘弁しといたります。

私が、生きる肌
画像クリックで出典IMDb La piel que habito の画像ページへ

エレナ・アナヤ Elena Anaya

というわけで、変なことを力説するのはほどほどに、注目のエレナ・アナヤについて何か書きましょう。

映画を観ていて、人工皮膚美女ベラがエレナ・アナヤだということには全く気付きませんでした。エンドクレジットで発見して「なぬ」と驚いたんです。驚きながら「はて、で、エレナ・アナヤって誰」と思ってよーく考えたら思い出しました。

割と最近「シャッター ラビリンス」という映画を観たんですが、それの主人公です。行方不明の息子を一心不乱に探す母親の役ですが、あの映画の出来はともかく、主人公の美女ぶりが強く印象に残りました。今から考えれば、多少彼女のアイドル映画的側面もあったように思えます。
もうちょっと古いのになると「機械じかけの小児病棟」のヘレン役で出ています。じつは「トーク・トゥ・ハー」にも出ています。最近では「この愛のために撃て」の奥さん役でもあります。
そもそもは「ルシアとSEX」で大注目されたし、ハリウッド作品にも出ています。あれ?なんだ、かなり大活躍の有名女優でありましたか。失礼しました。

人工皮膚美女のベラが如何に美しいか、映画を観て堪能しましょう。もうアントニオでなくてもメロメロになります。あの肌はスーパーお化粧とCGのなせる技なんでしょうか。でも肌だけじゃなく、もうなんというか目つきから曲線美から仕草からなにからなにまで美しすぎて完全ノックアウト(旧語)

ペドロ・アルモドバルが映画化のプロジェクトを発表した当初はペネロペ・クルスを予定していたそうですね。いやもう今となってはエレナ・アナヤしか考えられません。エレナ最高。死んだら葬式あげてな。アホそれはセレマや。

なんか、くだらないことを書きすぎて思っていた感想を全然書けなかった気がする。

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