汽車はふたたび故郷へ

Chantrapas
ソ連時代のグルジア。やんちゃでカメラ好きの少年はやがて映画監督になりますが祖国の窮屈さに我慢できずにフランスへ旅立ちます。若い映画監督の奮闘を描くこの映画は、グルジアの巨匠オタール・イオセリアーニ監督の半自伝的な映画であるそうです。
汽車はふたたび故郷へ

ひとつ注意しておくことは、「汽車はふたたび故郷へ」というほのぼのした感動っぽい邦題にミスリードされないこと。原題「Chantrapas」は「役立たず」という意味です。そうなんです。若い映画監督、この彼の役立たずで無様な姿を描いている映画なのでして、邦題のまろやかなイメージにだまされてはいけません。

そもそも私は物を知らぬ人間ですから、わずかに知っていること以外は何も知りません。全然無知無知蝸牛です。ですので「グルジアの巨匠」などと言われても、グルジアの映画界のことも巨匠のことも全く存じません。オタール・イオセリアーニがグルジアの巨匠であると今知りましたが、「汽車はふたたび故郷へ」を観ている間は、比較的若い監督かなあと思っていました。若々しい作風だったからです。

ソ連崩壊前で、街には開発の波が訪れていて、劇中で撮っている撮影所や編集室、映画のフィルムの質感などすべて昔風で、共産党の連中の言動が新鮮で、そういうのを見れば時代設定が何となくでも判るはずですが、わざと古い時代設定にしていると思い込んでました。だってほら、今時って多くの監督が古い時代風に作ったりしますからね。

さてこの「汽車はふたたび故郷へ」こと「役立たず」という作品、映画監督の青年のお話です。
少年時代をちょこっと描いて、それからプライドだけ高くて実力の伴わない青臭い青年時代に映りまして、自分の芸術がうまく受け入れられないのはこのくそったれな共産主義国家のせいだと人のせいにしてフランスへ渡ります。フランスはフランスでまた上手く立ち回れず理想の芸術活動ができません。
祖国では検閲や監視などで表現を制限され、西側先進国ではビジネスの制約のためやはり表現を制限されます。というか、そう思い込んでいます。「おれの芸術をわからぬぼんくらどもめ」と若い監督、つまり役立たずのこの男はそうやって自分の役立たずさを顧みることなく、ぼやぼやと表現活動っぽいことに勤しみます。
話はそんな感じです。この青臭い若者を見てイライラするのは若い観客かもしれません。映画全体を見渡すと、この役立たずのぼんくらは寧ろほほえましい人に見えてきます。

物語の後半にはふたたび故郷へ帰ります。故郷は開発の波が訪れており街の景色が急激に変わりつつあります。しかし実家と家族は以前のまま。物語の前半にたっぷり描かれる家族や近所の人々、建物や路や景色も以前のままです。
挫折して故郷に帰るぼんくら青年を優しい家族が包み込みます。
と、ストーリー上はそういう感じです。ですがちょっと引っかかることがあります。

この映画、だいたいそもそもあれじゃないですかね、劇中の監督が目指しているような、芸術色が強い映画だと認識していいと思うんです。いや、芸術色が強いなどとそういう言い方は語弊がありますが、なんといいますかね、一過性の娯楽作品でないのは明白ですが、それ以上にちょっと何かあります。

節々にユーモラスなシーンやコミカルなシーンがあり、幻想的なシーンや不思議な光景があって、劇中劇映画内映画もあって、映画作りや編集のシーンがあったりして、街や政治や人々なんかも面白くて、盛りだくさんでいろいろと楽しめる作品ですが、やはりその、ただ見て楽しむだけのものとはちょっと違う部分もあります。

とても癖がある演出が目立ちます。まず時間的な感覚です。間の取り方が独特です。間延びしているようなじーっとしているような、かと思えばさらりと通り過ぎるような、特徴的なリズム感覚がありまして、これきっと合う人にはビシッと合うんだと思います。
ミヒャエル・ハネケという監督も時間やリズムに関して強烈な個性を持っていますが、私個人的にはハネケの時間感覚がビシッと来ます。心臓の鼓動が高鳴るほどのリズム感覚の共有が可能でして、あれにはびっくりしたものですが、そういうカット間の時間配分や映像のリズムっていうのが相当考えられてるなってのがわかります。正直いいますとそのリズム感覚は私個人にはあまりビシッとは来なかったですが、でも意味は伝わります。

もうひとつ強烈な演出の個性は、会話を聞かせず、物語を説明しないことに徹底していることです。
誰かと誰かが話しているシーンであっても、その会話の内容を明らかにしません。また、何がどうなってんのか判らぬままの結果だけの会話シーンがあったりします。
あるいはひそひそ話をしていたりしますが、ひそひそ話なので当然こちらに声が聞こえません。
あるいは誰かと誰かが話しながら歩いていますが、足音は出すくせに声を出しません。
こういうのが頻出しますから、内容理解のための説明を欲するような人にとってはまことイライラする映画となります。

説明の排除と言えば、そもそも祖国で受けた屈辱や迫害、フランスに旅立てる手筈、そういったことを具体的に示しません。「こうこう、こういうことがあって、こうなってそれからこうして、そんでもってこうなってフランスに行くことになりました」というストーリーを描写するシーンはありません。なんとなく誰かのコネでなんとなくそういうことになったんだな、と納得するしかないような描き方です。

私ときどき書いてますが、限られた映画の尺の中で、たくさんの説明しなければならない事柄をいかに説明臭くなく説明するかの物語るための技術っていうのがあって、それとても重要です。説明を排除することも含めた物語る技術です。
映画の目的によってその方法は様々です。目的に応じた表現技法があり、その表現技法の技術力の幅も実に様々です。
この映画はわりと徹底的に説明を排除する側に立っています。説明を排除してはいるものの、他の表現でそれを補うという技法もありますが、どちらかというと他の表現で補完してもおらず「いや、その件についての説明はいらないから」と言っているように感じます。

劇中、とても興味深いシーンがありました。
フランスに到着した主人公の面倒を見る人が、フランスに来ることになったいきさつを質問するんですよ。主人公は答えます。
「それを話せば長くなるから」
「長くなるの」
「そう」
そして会話は終わります。「えっ。話してくれないの?」って思うのはあっけにとられる観客のほうです。

これ面白いシーンですね。そうなんです。青年監督がどのようにフランスに来ることになったのか、たしかに断片的にはつい今しがた観てきました。
祖国からフランスへ、フランスから祖国へ、その経緯を尺を使って表現として説明し出すと、それしか描けなくなります。だからもういいんです。そういう話は、どうでもいいんです。描く事柄は旅の経緯でなくて他にあるのです。

このシーンは「汽車はふたたび故郷へ」という映画についての、数少ないヒントのひとつだと思いました。

というわけでストーリーの詳細を説明しないこの映画、最後の最後は摩訶不思議な終わり方をします。
「なんだこりゃ」と思って、その後数十分物思いにふけっていたら、だんだん効いてきました。

確信は全くありませんが「もしかしたら」と、ひとつ思い当たることが出てきたんですね。「これって、もしかしてあれですか、この最後のほうの展開、これあれですか。オチのほうじゃなくて、その手前のほうがあれですか」あれではわからんですね。もしかして、この青年は故郷には帰らなかったんではないかという疑惑です。
その可能性に思い当たると、どうにもこうにも深々と、ずぶずぶと、胸騒ぎのような奇妙な感覚に身を包まれます。
いやもちろん何の確信もありませんので、勝手にそういう可能性の一つを見つけて思考実験して遊んでいるだけなんですけど。

というわけであれですね、あれではわからんか、こういう、想像力を刺激されてそれに耽る行為まで影響を及ぼす作品、これやっぱり芸術作品だと言っていいと思うんですね。

映画には娯楽と芸術の二種類があるなんていう不毛な言説があります。娯楽ですか芸術ですか。何を言ってるんでしょう。どっちもありますよ。なぜどっちかに分けますか。映画は映画です。娯楽と芸術は別のカテゴリじゃないし両立します。この映画がまさにそうだし、細かいジャンルわけなどはどうでもよろしいですよね。

というわけで、ちょっと不思議な時間感覚と、コミカルさと不条理感と、ユーモアとノスタルジーと、娯楽と芸術が渾然一体となった独特の作品でした。
正直に告白しますと、私個人のツボにはど真ん中直撃というわけでもありませんでしたが、それは微妙で些細な話なのでどうでもいいことです。ど真ん中直撃の人もきっといるだろうと思います。

そうそう、やたらめったら老人ばかり出てくるのが気に入った。老人映画としても突出した魅力があります。

[追記]

あらまあ。馬鹿な感想文を書いた後でちょっと探してみたら中身の濃い監督のインタビューがしっかりありました。そりゃそうですね、公開してたの、だいぶ前ですもんね。来日もされてたんですもんね。
先に読んで予習してもっと賢そうなことを書けばよかったか。。リンクはサイドメニューの参考リンクに書いときました。

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